漆.葛藤という名の生存「競」争

前編.悪路王


『しまった!! おい、しっかりしろみのり!!』
 静かにその場に崩れ落ちるみのり。王鬼に憑かれ、気を失ったらしい。
 皐月雨は、言葉を交わしたり身体能力強化を行うための魂の共鳴が、強制的に断たれたことを知覚する。
 再度共鳴をしようにも、いまやみのりの身体は王鬼の妖気に包まれているため不可能だ。
 ……しかし、みのりもすぐに身体を乗っ取られるわけではないらしい。
 彼女が自身の内で抵抗しているのか、はたまた皐月雨の妖力の影響を受けていたためか、まだ前の宿主のように王鬼の力がしっかり身体に馴染んでいない。
『まずは王鬼の妖気の壁を破らなければ……!! それまでなんとか耐えてくれよ、みのり……!』


 みのりは、気がつけば何もない空虚な灰色の空間に、ただ一人たたずんでいた。
(まさか、私死んじゃった……? ……ううん、違うな。この感じ……)
 意識がはっきりしてくると同時に、何も無かった空間に様々な模様や靄(もや)のようなものが浮かび始める。
 理屈ではなく直感で、みのりはそれらが自分の思考と連動してることを悟る。
 つまり、ありていに言えば……。
「……ここは、私の心の中、みたいなところ……?」
 そう考えてみれば、こんな奇妙な空間は初めて見るはずなのに、よく知っているような気がしている。
 自分の精神そのものを、擬似的に空間として見ている……そんな考えが、妙にしっくりきた。
 ……突然、悪寒を感じて振り向く。
 すると、この空間の遠く彼方から、物凄い速度で真っ黒な"闇"が灰色の空間を蝕んでくるのが見えた。
「……!!」
 その"闇"は瞬く間にみのりのいる位置まで達し、彼女を呑み込んで周りの世界――みのりの精神世界を漆黒に染め上げる。
 それと同時に、みのりは強烈な負の感情に襲われた。
 初めて王鬼と対面したとき、邪気に当てられた感覚と全く同じ。
 根拠のない不安、苛立ち、悲しみ、憎しみ……そんな、理不尽な衝動に。
 だが、今回みのりの脳裏に湧き上がってきたのは、それだけではなかった。
 その"何か"は、最初は光や音の断片だった。
 それらが徐々に周期的に繰り返すようになり、集合しだす。光の断片は光景へ、音の断片は音声へと形を成していく。
 そうして形作られ、みのりが目にしたものは……ある男の、かつての記憶。はるか昔の、闘いと苦悩の記録だった。




 今より時を遡ること約千二百年。東北の地に、男はいた。
 名を、モレという。
 東北の地のとある民を束ねる長であり、ヤマトの侵略に対抗するため、複数の部族が団結した一団の副将であった。
 彼は一団の頂点に立つ盟友・アテルイとともに、ヤマトと闘ってきた。
 アテルイの将としての戦(いくさ)の才はたしかで、最初の戦いでは二万強の敵をわずか千人強で打ち破り、二度目の十万人による侵攻にも屈しなかった。
 だが、ヤマトによる数にものを言わせた度重なる侵攻は、確実に民の戦士達の力を削っていった。
 そして、三度目の侵攻のとき――
「……今、なんといった? 気は確かか、アテルイ!?」
「ああ。私は冷静だ。……その上で、降伏勧告を受けるべきだ、と言っている」
 激昂(げっこう)するモレに、アテルイは淡々と述べる。
「馬鹿な! 侵略してきたのは奴らヤマトではないか!! 我らはただ我らの地で我らなりの生き方をしていただけだというのに、だ!!  いきなり従え、生き方を合わせろなどと勝手を言い、拒んだら兵を向ける。そんな奴らに屈しろと貴様は言うのか!?」
「わかっている。奴らの今までのやり方に正義はない。……だがな、我らが同胞達も、たびかさなる戦いで疲弊(ひへい)しきっている。 確かに死者の数は我らのほうが少ないだろうが、その代わり十数の村、何千の家が焼かれたからな。しかも……」
 アテルイは無念の思いを込めた表情を浮かべながら続ける。
 彼とて悔しくないはずがない。
「此度(こたび)の敵の将、タムラマロは手強い。今までのようにはいかないだろう。このまま無理に抵抗を続けて、民全体が滅びへ向かう事だけは避けたいのだ」
「……くっ……」
 モレは拳を握り締め、黙する。
「モレ。侵略者に屈するなど、私とて本意ではない。我らは決して間違ったことなどしていないのだから。 ……しかしな。私は誇りよりも、民を守りたいのだ。……勝負に勝つばかりが闘いではない。私は、そう信じる」
「……わかった。御前に従おう、アテルイ」




 そこで、突然音が遠のき、光景がわずかな欠片を残して霧散する。
(アテルイ……? たしか、歴史の授業で聞いたことがあったような……。でも、なんでここでそんな人の出てくる映像が?)
 みのりは、さっきまで見せられていた鮮明な映像のなかで聞いたいくつかの単語に聞き覚えがあった。
 ヤマト、タムラマロ、そしてアテルイ。
 いつだったか日本史の授業で少しだけ習った、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)と蝦夷(えぞ)の戦いで出てくる単語だ。
 だがあの映像は、むしろ授業では聞き覚えのない「モレ」という男の視点だった。
 付加的に得られた知識によると副将だそうだから、おおかた授業では省略されたのだろう。
 自分はモレという男の名前すら知らなかったのだから、彼の記憶は王鬼によってもたらされたものだと思って間違いない。
 だが、それが何を意味するのかは、まだわからなかった。
 やがて、再び光景が浮かび上がりはじめる。みのりは、この状況を理解するための糸口を求め、その幻影に意識を集中させた。




 モレが我に返ったとき、彼は一人、見知らぬ土地にいた。
"……ここは? 己(おれ)は、確か……"
 記憶によれば、先刻(せんこく)まで自軍の砦でアテルイと話していたはずだった。
"……いや、それは本当に“先刻”のことか? なにか、とてつもなく長い間、ずっと眠っていたような気がする……"
 そう呟きつつ、彼はあたりを見回す。
"ここは……ヤマト、か?" 
 道行く人、立っている家々が、自分達の部族のものとは違う。むしろ、かつて見聞きしたことのある、ヤマトの情報に合致する。
 何故、自分は敵国といっても過言ではないヤマトにいるのか? そう考える間に、彼は別のことに気付く。
 自分の身体の感覚がないことに。
 驚いて両手を眼前に出そうと……いつも普通にしているように、動かすことを意識する。
 すると、途端に目の前に自分の腕が現れた。同じように、首が、胴が、脚が、意識して動かそうとすることにより現れる。
"……いったい、何事だ?"
 自分の身に降りかかった異常に戸惑うモレ。
 と、突如彼をさらなる異変が襲った。
"?!!"
 一瞬何がおきたのか分からなかった。視界に映る景色が突然消えたかと思うと、次の瞬間目の前にヤマトの男性の後頭部があり、しかもその男性は何事も無かったかのように前へと歩いていったからだ。
 ……自分の身体を“通り抜けて”いったのだと認識するのに、同じ経験を三度ほど必要とした。
 彼自身を通り抜ける者を含め、モレの存在に気付く者は誰一人としていなかった。
"つまり……今の私は、肉体を持たぬのか?"
 信じがたいが、自分は霊の類になっているらしい。だが、何故?
 記憶はすっぽりと抜け落ちており、あの時から今までの経緯がまったく思い出せない。
 どんなに記憶を探っても、まるで深い霧の中を闇雲に動き回るかのようにまったく手がかりがつかめなかった。
"……そうだ……。そんなことよりも、民は? 我が同胞たちはどうしているだろう……?"
 そう呟くと、彼は太陽の位置を頼りに北のほうへ……故郷があると思われる方角へと歩き出した。


 途中、他の人間と"重なる"とその者の記憶を断片的に得られるということに気付き、少しずつ“その時代”を知っていく。
 彼が意識を取り戻したのは、河内国椙山(かわちのくにすぎやま)とよばれる場所であること。
 年号はヤマトで使われているもののため聞いても分からないが、タムラマロの名が歴史の一部として語られていることから、タムラマロが生きた時代……すなわち、自分が人間として生きていた時代は、相当の大昔であるらしい、ということ。
 ついでに……タムラマロには、アクロオウという鬼を退治したという武勇伝があるということ。
 モレにとっては突拍子もない、信じがたいような知識ばかりが与えられていく。
 偶然か必然か、彼の民に関する情報はなにも得られなかった。
 人の肉体を失った彼に疲れはなく、昼も夜も関係なしに北へ北へとひたすらに進み続けた。


 ……そして。長き放浪の果て、彼はついにかつての自分の故郷に辿りついた。
 ……辿りついた、はずだった。
 近くの山々や川の位置などからして間違いないはずだが、モレはいまだ確信を持てずにいた。
 もとより彼ら部族の文化は先祖代々のものであり、彼が生きていた時点でも、人々の生き方や家の形式などは、 何代にもわたって昔のものとそれほど大きく変わってはいなかった。
 だから、いかに長い月日が過ぎ去ったといえども、今でも少なくとも雰囲気などは変わらないはずである。
 だが……。
 彼の目の前に広がる光景は、あまりにかつての故郷とは違いすぎた。
 それは彼が意識を取り戻したヤマトの光景とほとんど変わらない。
 ヤマトの人々、ヤマトの生き方、ヤマトの家々、ヤマトの文化……。部族が先祖から受け継いできた文化は、もはやひとかけらの名残すらない。
"……………"
 モレは言葉を失い、立ち尽くすしかなかった。


 ……どれほどそうしていただろうか。
 人ならぬ身となり、疲れも眠りも失ったため、日が沈もうが夜が明けようがひたすら呆然とするしかなかったモレ。
 時は、とある誰そ彼時(たそがれどき)。
 彼に、声をかける者がいた。
 最初、モレは自分が声をかけられているのだ、と気付かなかった。
 なぜなら彼は肉体を失った存在であり、見知らぬヤマトの地で目覚めてから、ほとんど誰も彼の存在に気付くものはいなかったからだ。 僧などの霊能力者も含めて、である。
 それほどに彼の存在は希薄だった。
 ときおり一際勘の良い者は“朧げな何者か”として彼の存在を感じ取る場合もあったが、大概は霊として怖がって念仏を唱えたりその場から急いで離れたりするのが常。
 彼に話しかけようなどという酔狂な者は、誰一人としていなかった。
"……御前に話かけているのだ、モレよ"
"?!!"
 だが、立ち尽くすモレの眼前に立ち、声をかけたその者は、こともあろうに彼の名を呼んだ。
 遙かな時が過ぎ去ったこの時代、知る者など誰もいないはずの彼の名前を。
 驚いたモレは目の焦点をその者にあわせる。
 それは、厳格そうな顔立ちの、初老の男だった。一見すると普通のヤマトの人間と変わりない。
 ……だが、モレはその男の発する気配の異質さに気付いていた。
 目の前の男はまぎれもなく肉体を持つ人間であるはずなのに、霊の類となった自分と“似ている”という直感があった。
 そしてそれ以上に、モレはその男のもつ雰囲気を、よく知っている気がしていたのだ。
"誰だ……? 何故己が見える。何故己の名を知る?"
 問いかけながら、モレは男を凝視する。
 面識がないと断言できるその男自身ではなく、男のもつ見えざる何かを知るために。
"……共に民の先頭に立って戦った友を、忘れるはずがあるまい? 御前からすれば、私の姿は異なっているからわからぬのも無理はないが、な"
"……!? まさか、アテルイか?!!"
"ああ。久しいな、友よ"
 アテルイの気を宿した初老の男は、静かに微笑む。
 その笑みは間違いなく再会の喜びを表したものだったが、何故か少しばかりの影を内包していた。
"おお、アテルイ……! 久方ぶりだ……だ、だが"
 一度は喜色をあらわにしたモレだが、すぐに戸惑いの表情を浮かべる。
"アテルイ、その格好はどうしたのだ!? それにこの土地、ここは我らが故郷ではないのか!? いったい、この世界はどうなっているのだ!?  己たちは、あのあと一体……!!"
"まて、落ち着け。モレ、もしや御前、憶えていないのか? 御前の言う“あのあと”とはいつのことを指す?"
"……“憶えていない”? やはり己はなにか忘れているのか?  あの時、御前が“タムラマロの降伏勧告を受ける”と言い出したあと、気がついたらヤマトの辺境に立っていて……。  嗚呼、御前も、我らが故郷も、そして己自身も、何もかもが変わり果てて、わけがわからぬ!"
 ヤマトの地で目覚めてからこれまで、誰にも尋ねることの出来なかった疑問を吐露(とろ)するモレ。
 それを聞き、複雑な表情でアテルイは呟く。
"……なるほど。“最後の記憶”が抜け落ちているのだな。……場合によってはそれは幸いかもしれないが"
"……“最後の記憶”? すると、やはり、我らは……"
"そうだ。降伏勧告を受け、我らはヤマトへと投降した。そして私と御前は反乱の首謀者として処刑されたのだ……"
 降伏勧告を受けると宣言したときのように、アテルイは無念の表情でそう言った。
"だろうな。理不尽な侵略をしてくる奴らのことだ。元より命を落とすのは覚悟していたこと。 ……それでこのような身体というわけか"
 アテルイの説明によると、強く未練を残して死した魂は、大地へ還らず人の世に留まってしまう場合が往々にしてあるのだという。
"しかし、それでは御前のその姿は? れっきとした肉体であるように思えるし、かつての御前自身の顔とは似ても似付かぬのだが……"
"……この世に留まりし魂の辿る“道”には二通りある。一つは怒りや悲しみなどの強烈な負の感情に囚われ、人々に害をなす悪霊となる道。 そして……もう一つは私のように、生きた術者と共生し、そういった霊を鎮める道だ。今の私は、この初老の術者の身体を借りているのだ"
 その言葉を聞いて、モレは最初は納得したようだった。
 ……だが、その心は突如として友への疑心と冷たい敵意で満たされ始める。
"……アテルイ、その“人々”とはヤマトの人間のことか? その術者……ヤマトの人間だろう!?"
"……そうだ"
 アテルイは少し躊躇しながらも、言葉少なに答える。
"馬鹿な!! ヤマトの手先に成り下がったか!?"
 モレの心の内で、怒りの炎が燃え盛りだす。
"違う! 私はただ、ヤマトだのエミシだのと部族に囚われず、人の世の“和”を守りたいだけだ"
"我らの部族の和を乱したのは、ほかならぬヤマトではないか!! ……そうだ、民は? 我らが処刑されたあと、我らが同胞達はどうなった!?"
"その前に落ち着くのだ、モレ! 今の御前は感情に支配されて冷静な判断ができない状態だ"
 アテルイはモレの精神状態を危険と判断したようだ。
 しかし、実際にかつて彼らの部族の土地だった場所がヤマトのような様相となっているのだから、民の将来もけっして明るいものでなかったことは想像に難くない。
 今モレがそれを明確に知れば、負の感情に囚われる可能性が高いのである。
"そうか……ならば!"
 モレは突然アテルイの頭めがけて手を伸ばした。精神のみとなったモレの腕はアテルイの宿る初老の術者の額をすり抜ける。
"!? モレ、何を!?"
 咄嗟に飛びすさるアテルイ。だが、モレは姿勢を変えぬままうなだれて黙っている。
"……モレ?"
 怪訝そうに様子をうかがうアテルイ。やがてモレは呟く。
"……なんという……ことだ!!"
 そしてそのときを境に、彼のまとう気配が変質する。
 感じ取っただけで身の毛がよだつような、強烈な憤怒と憎悪に。
"……! モレ、御前まさか……私の記憶を覗き見たのか!?"
 モレはその精神体を他者と同調させることで、相手の記憶を見てきた。それがアテルイにも通用したのだ。
 そうして知ったのは……強制的にこの地を追われ、離散(りさん)させられた民の苦難と、そんな彼らを“野蛮人”あるいは“鬼”と脚色して伝えられたヤマトの歴史。
 そう……、タムラマロが退治したアクロオウとは、その“鬼達”の長であるアテルイを指していたのだ。
 モレは激昂した。
 侵略しておきながら、支配した相手を悪の象徴たる鬼と称し、正当化したヤマトの身勝手さに。
"……いいダろう。奴等が鬼と呼ぶのナら、望みどおりおレは真に鬼となル! 慈悲も心も持たヌ化生とナり、奴等の魂を屠(ほふ)ッテくれるわ!!"
 モレは視界が朱に染まり、身体が内側から変質していくのを感じながら叫ぶ。
全身の筋肉が隆起し、爪や歯が鋭利に伸び、髪が逆立っていく全身の感覚は強烈な痛みを伴ったが、それ以上に彼の心は猛り狂っていた。
"いかん……! モレ、気を確かに持て!! 憎しみに囚(とら)われるな!!"
 アテルイは急いで封術を展開しようとする。……が、モレが咆哮(ほうこう)とともに放った妖気の衝撃波の直撃を受け、大きく吹き飛ばされた。
"ぐッ……これほどとは……!"
"……アてルイ。腑抜ケた御前二、鬼ノ長の名ハふさワシくナイ。アクロオウ……“悪の路(みち)の王”ノ名は、オれが貰イ受けル!!"
 そう言い残し、モレはヤマトの京のある方角……南西へ向かって跳躍する。
 かつての故郷の景色がぐんぐん小さくなり、視界の半分以上を空が占める。
 もはやとうに陽は沈んでいる。
 架空の伝承から真実の存在となった“悪路王”を迎えたのは、血のように紅い月の浮かぶ、漆黒の夜空だった。

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