【 概要 】「力とは何か」
量子力学において、「力とは何か」という問題を扱う。それがこの文書の目的だ。
なお、もっと詳しい話は、 英語版( Superballs and Superstrings ) に記してある。この英語版の後半の内容の、要旨だけを簡単に記したのが、本文書である。
( ※ 英語版の前半を翻訳した和文文書も、別にある。そちらを先に読んでおいてほしい。)
【 目次 】
§基本
波と粒子
振動の伝達
§力とは?
粒子の交換
共鳴
力と共鳴
力の本質
まとめ
§場の概念
エーテル振動
呼吸
§さまざまな力
弱い相互作用
強い相互作用
電磁気力
重力
力の伝達距離
マックスウェルのモデル
結論 ★
§参考
重力波
ヒッグス粒子
最後に
§余談
( 初心者への解答 )
※ 参考として、次のサイトもある。
→ 「力とは何か?」という初心者の疑問
これは、質問ないし疑問だけがあって、解答はない。
※ 「力とは何か?」というのは、現代物理学では、未解決の問題だ。
つまり、現代の物理学(量子論)は、明確な解答を出していない。
詳しくは、巻末の「余談」を参照。
(これを最初に読んでもいい。特に、初心者は。)
基本
力とは何か? これをテーマとして考えよう。まずは、すでに述べたことの復習をしよう。
英語版の前半を翻訳した和文文書(超球と超ヒモ)を、すでに公開しておいた。この内容を、要旨の形で、以下に再掲しよう。
波と粒子
超球理論では、「玉突きモデル」という原理が導入される。それは次の図で示される。
ここでは1次元の直線で振動が伝達する。一方、2次元の平面で振動する場合も考えられる。次の図のように。
ともあれ、こうして、「たくさんある超球(エーテル)を振動が伝わる」という原理が示された。
( ※ もうちょっと詳しい説明は、玉突きモデル のページにもある。まだ納得できなければ、そちらを読むといいだろう。)
振動の伝達
上記では「振動」という用語を使った。ここで、振動とは、どういうものだろうか?
図で示すなら、振動とは、次のようなことだ。
ここでは、出発点(starting point )と到着点(end point )では超球が粒子になっているが、その中間では超球は振動状態となっている。
この超球の振動状態は、次のように簡略化して示すこともできる。
これはいわば、「表 裏 表 裏 表 裏 ……」というような振動だが、正確に言えば、「1」と「−1」の間の階段状の振動ではなく、なめらかな波状の振動となる。次の図のように。
超球は、波状に振動する。そのことは、超球が複素数空間で回転することに相当する。この回転は、次の式で示せる。
eix
超球が回転するとき、その回転は、波状の振動として観測される。
超球は、停止しているときには粒子だが、回転しているときには振動する波となる。次のように。
力とは?
いよいよ肝心の問題に取り組もう。力とは何か?
粒子の交換
まず、従来の考え方を調べよう。従来の考え方では、「力とは粒子の交換だ」というふうに見なされる。これを理解するには、次の図を見るといい。
上の図で、大きな円と小さな円がある。大きな円は、たとえば陽子と中性子である。小さな円は、たとえば中間子である。
ここで、陽子と中間子の間に、力が働く。そのとき、中間子が交換される。交換されるときには、中間子は移動する。次の図のように。
ここで、超球理論の考え方に戻ろう。
超球理論の考え方では、「粒子の運動」とは、「超球の振動」のことである。それは、次の図で示される。
この図では、「粒子の運動」または「超球の振動」は、「右方向」へ流れるだけだ。しかるに、「粒子の交換」があるのならば、「右方向」と「左方向」の両方への流れがあるはずだ。次の図のように。
しかもこのことは、周期的に交替しているはずである。次の図のように。
(右端に見えるように、cyclic change がある。)
要するに、「粒子の交換」というのは、振動の「周期的な交替」のことである。
( ※ ここでは、古典力学の用語を「量子化」している。古典力学の「運動」という用語が、超球理論の「振動」という語に転化されている。……このとき、経路もまた「量子化」される。直線状の経路は、媒体としての空間全体という経路に転化される。ファインマンの経路積分と同様。)
共鳴
では、「周期的な交替」とは何なのか?
比較しよう。
「右方向だけ」というふうに流れるときは、この流れは瞬間的なものである。たとえば、電子が左から右へ流れるとき、振動は各点において瞬間的にピークが発生するだけだ。電子が流れるにつれて、振動のピークがどんどん移動していく。途中の点でも、出発点でも、到着点でも、一瞬のピークが生じるだけだ。
一方、「周期的な交替」があるときには、振動は継続的に続く。一瞬ではなく、長い時間に渡って続く。たとえば、陽子と中性子の間に働く力は、原子が崩壊するまでずっと続く。(ほとんど永遠の時間である。)
このように長期的に続く「周期的な交替」を、「共鳴」と呼ぶことにしよう。それは音叉の「共鳴」に似ているからだ。
( ※ 「共鳴」というのは、「振動の定常状態」というふうに理解される。音叉の例などを考えるとわかる。通常、力の作用する空間では、こういう定常状態がある。たいていの場合、定常状態があると見なしていいだろう。)
( ※ 音叉の例で見よう。音叉 a の固有振動数と音叉 b の固有振動数が同じだと、音叉 a から出る音波に、音叉 b が共振する。これが「共鳴」だ。固有振動数が異なると、音叉 a の音波に、音叉 b が共振しない。……こういうことは、かなり良い類比になる。つまり、突き詰めて考えると、継続的な定常状態は、必ずしも要件とはならない。たとえば、瞬発的な力が作用することがあり、そこでは定常状態は要件とはならない。)
( ※ 音叉の例で見ると、共鳴は、ただの振動の伝達であるはずだ。振動の交換 [相互伝達] は必要ない。このことは、後述の「電磁気力」の箇所でも説明される。)
力と共鳴
ここまで理解すればわかるように、「粒子の交換」とは「超球の共鳴」のことである。改めて整理すると、次の通り。
陽子と中性子の間に力が働く。これについて、次のように解釈された。
・ 「陽子と中性子が、中間子(という粒子)を交換する」 …… 従来の説
・ 「陽子と中性子が、中間子(という超球)で共鳴する」 …… 超球理論
この二つは、矛盾するわけではない。見かけ上では、同じである。超球理論でも、力を媒介するものは、中間子(の超球)であるからだ。それを観測すれば、まさしく中間子となる。
では、どこが違うか?
従来の説では、中間子という粒子そのものをキャッチボールのように交換している、と見なされた。その場合、一つの中間子は、陽子から中性子へと、かなりの距離を移動することになる。
超球理論では、中間子という超球は、振動を伝達するだけだ。その場合、超球(一つの中間子の超球)は、それ自体は移動しないで、単に振動を伝達するだけだ。これらの超球は、陽子から中性子へと移動することはなく、その位置でごくわずかに振動するだけだ。
力の本質
では、力とは何か?
従来の説では、次のいずれかで解釈される。
・ 力とは、粒子の交換によって生じるものだ。
・ 力とは、粒子の交換そのものだ。
どちらでもいいが、どちらも似たようなものだ。ただ、前者には因果関係があるが、後者には因果関係がない。
超球理論の解釈(次に述べる)は、後者に似ている。
超球理論の解釈では、こうなる。
「陽子と中性子は、たがいに離れているときには、何の影響も及ぼしあわない。しかるに、ある程度の距離まで近づくと、ひとりでに共鳴しあう。この世界はそういうふうになっている。そして、そういうふうに共鳴しあう現象が、力の働いている状態である」
比喩的に言おう。ロミオとジュリエットは、離れているときには何の影響も及ぼしあわない。しかるに、ある程度まで近づくと、相手の姿を認めて、心が引きつけられる。相手に興味を感じつつ、相手に近づきたくなる。そこで近づく。すると、近づけば近づくほど、いっそう相手に引きつけられる力が大きくなっていく。
では、なぜ、二人は引きつけられるか? それは、二人の間に、共通する何かがあるからだ。その共通する何かが、二人の間で共鳴しあう。── こういう現象が「愛」と呼ばれる。
量子における「力」も同様だ。量子は、どんなものでも、たがいに力を及ぼし合うわけではない。ただし、陽子と中性子というような関係のある場合には、中間子の振動という特別な振動を通じて、たがいに中間子を媒介として共鳴しあう。
このような共鳴は、どのような場合にも起こるわけではない。限られた種類の場合にのみ起こる。また、特有の振動でのみ起こる。その限られた種類の場合に共通する特有の原理が、「力」の原理だ。
この「力」には、「弱い相互作用」「強い相互作用」「電磁気力」という3通りがある。それぞれには、特有の振動がある。
超球理論で「特有の振動」と呼ばれるものは、従来の説では「特有の粒子」(たとえば中間子)と呼ばれる。ただし、どちらにしても、同じことである。(中間子には特有の振動があるから。両者の違いは、粒子として表現するか波として表現するか、という違いでしかない。)
まとめ
力とは、何か?
従来の説では、力とは、「粒子の交換」のことであった。
超球理論では、力とは、「共鳴」のことである。
「粒子の交換」であれ、「共鳴」であれ、それで示される現象は同じだが、モデル的な解釈が異なる。
力の本質は、何か?
従来の説では、力とは、「粒子の交換」であり、それ以上には何とも説明されない。
超球理論では、力とは、「共鳴」のことであり、それは「粒子が近づいたときに自然に発生する現象」と説明される。
場の概念
「場」という概念を導入する。
エーテル振動
すでに「共鳴」という概念を導入した。しかし、それだけではまだ足りない。そこで新たに「場」という概念を導入しよう。たとえば、「電磁場」という「場」だ。
では、「場」と何か? それは、「エーテル振動」(超球の満ちた空間としての真空が振動すること)のある空間のことだ。
複数の量子が共鳴状態にあるとき、これらの量子が直接的に力を及ぼし合うのではない。次の過程を取る。
・ 量子Aが空間にエーテル振動をもたらす。
・ エーテル振動をしている空間が、量子Bに、振動の影響をもたらす。
・ そうしてもたらされた振動の影響が、力だ。
ともあれ、ここでは、「場」という概念が重要である。そして、そのためには、「場」というものは、エーテルに満ちたものであり、かつ、振動するものであることが必要だ。
従来の学説では、「何もない空間において、粒子が交換される」という発想を取った。しかし、超球理論では、「空間が振動する」という発想を取ることで、「場」というものが本質的なものとして導入される。
なお、従来の学説でも、「場」の概念はあった。ただし、そこでは「場」は抽象的なものであった。量子の場であれ、電磁場であれ、量子そのものとは別個のものとして場というものが想定された。ここでは、「場」というものを無視することもできた。たとえば、二重スリット実験のときには、「場」という概念は特に導入しないで説明される。「一つの電子が、何もない空間を通りながら、二つのスリットを同時に通ったのだ」と。
一方、超球理論では、そうではない。超球理論では、「エーテルに満ちた空間」というものは、不可避的に導入される。── そして、そのエーテルの空間において、振動の定常状態(共鳴状態)があるとき、そのときのエーテルのある空間が「場」となるのだ。
呼吸
では、空間が振動の定常状態にあるとき(空間が場になっているとき)には、量子はいかにして空間に振動をもたらすか?
ここでは、次の二種類の量子がある。
・ 力を及ぼしあう量子A,B (たとえばクーロン力における二つの電子)
・ エーテル振動をする量子 (たとえば光子)
特に電子と光子の場合で考えると、次の二通りの関係があると見なす。
・ 電子と光子の関係
・ 光子同士の関係
前者は「呼吸」respiration と呼ばれる。一方、後者は(前述の)「共鳴」resonance という関係である。
電子と光子の関係は、「呼吸」である。ここでは、電子が光子を吸収したり放出したりしている。
そして、電子A,Bが「共鳴」状態にあるというのは、実は、電子A,Bが光子を介在させながら共鳴している状態であることを言う。
なお、ここでは、注意するべき点がある。「場」において振動するものは超球だ、ということだ。つまり、「光子の超球」である。「光子」は粒子と見なされるが、「光子の超球」は振動の媒体である。……ここではあくまで、超球理論の発想を取る必要がある。「光子」を粒子と見なして、粒子をキャッチボールのように交換する(または粒子そのものを放出したり吸収したりする)、と見なしてはならない。
つまり、「呼吸」もまた、「共鳴」と同様の原理がある。
( ※ やや専門的な話になるが。……「呼吸」と「共鳴」とを区別することで、量子力学における「無限大の発散」という問題についても、解決がつく。簡単な発想だと、電子は体積ゼロの質点であり、そのまわりに量子の場がある、というふうに考えられる。そこで、積分を、距離ゼロのところまで計算すると、値が無限大になってしまう。しかしながら、上記の図に従えば、、積分の値を計算していい領域は、共鳴の領域だけである。距離ゼロのあたりの呼吸の領域は、積分の値を計算してはならない。したがって、「無限大の発散」という問題は回避される。……なお、ゼロ近辺の領域では、「呼吸」の値を計算すればいい。こうして、両者を区別することが「くりこみ理論」に相当し、実際に「呼吸」の値を計算するのが、量子電磁力学に相当する。量子電磁力学では、「仮想的な光子を放出したり吸収したりする」という仮定が考えられている。これがつまり、「呼吸」に相当する。)
( ※ 従来の発想では、「光子の交換」という用語がある。ネット上にも、初心者向けの解釈がいろいろと見出される。 → Google 検索 )
( ※ 専門家ならば、英語版 Superballs and Superstrings を読んでほしい。「共鳴」や「呼吸」についての詳しい話は、英語版に記してある。)
さまざまな力
もう少し、細かな話をする。弱い相互作用・強い相互作用・電磁気力・重力という四つのタイプに分けて、個別に説明しよう。(特に読まなくてもよい。肝心な話は、すでに示した。初心者なら、ここまで読めば、十分だ。)
弱い相互作用
弱い相互作用は、ごく短い距離の間でのみ働く力で、ウィークボソンという重い粒子によって媒介される。ここで、ウィークボソンが重い粒子だ、ということが問題となる。
従来の「粒子の交換」という発想だと、「非常に重い粒子を交換する」ということになって、納得しがたいことになる。比喩的に言うと、人間がピンポン玉を投げて交換することは可能だが、人間が地球を投げて交換することは不可能だ。
一方、超球理論の「共鳴」という発想ならば、「非常に重い粒子を交換する」ということはなく、「非常に重い粒子(の超球)が振動する」ということだけで済むので、納得しやすい。
実際、ここで起こっている現象は、「粒子の交換」ではなく、「共鳴」であるはずだ。
強い相互作用
強い相互作用は、先に示したような力で、中間子によって媒介される。ここでは、中間子について、「粒子の交換」または「共鳴」が起こっていることになる。前述の通り。
なお、最近の量子力学では、クォークを導入した「量子色力学」という理論で説明をし直されている。そこでは「グルーオン」というゲージ粒子について「粒子の交換」があると見なされる。
とはいえ、これについても、同様に「共鳴」という概念で説明されるだろう。
( ※ なお、核力を中間子の交換として説明する理論が間違っているわけではないから、クォークのことをことさら考慮しなくてもいい。)
電磁気力
電磁気力は、光子において「粒子の交換」または「共鳴」がある。これはとても長い距離でも働く。事実上、宇宙のはてまで届く。ここで、相対論的な問題が考えられる。
仮に距離が1億光年だとしよう。
「粒子の交換」という概念で説明するなら、粒子の到達には1億年かかり、粒子の帰還(元の場所に戻ること)にも1億年がかかるから、合計、2億年かかる。……これでは、1億光年の距離の場所まで力が到達するのに、時間がかかりすぎる。つまり、現実の観測結果とは矛盾する。(1億光年の距離のところに電磁力が伝わるには、1億年だけあればよく、2億年を必要としないから。)
A←─── 1億光年 ───→B
● ●
しかし、「共鳴」という概念で説明するなら、そういう問題はない。1億年の時間だけで済む。というのは、単に「共鳴」のための「振動状態」だけが伝達されればいいからだ。このことは、次のように図示される。
A B
● )))))))))))))))))))))))) ●
振動が1億年かかって到達したあとで、粒子Bは共鳴する。Bが振動を返して、その返した振動がAに到達する必要はない。ここではBだけに共鳴状態が起こっている。
( ※ 比喩的に言えば、音叉 a の振動が音叉 b を共鳴させるとき、音の振動が音速で伝わるだけでいい。音叉 b から音叉 a に振動を返す必要はない。)
具体的な例を考えよう。たとえば、Aにおいて超新星が爆発して、電磁気力が発生した。その力がBに到達するのは、1億年後である。1億年後に振動が到達したときに、Bには共鳴によって力が発生する。ここでは、「粒子の交換」(光子の交換)は必要ない。
というわけで、「粒子の交換」よりも「共鳴」という概念の方が、妥当である。
なお、「場」という概念を使えば、次のように説明される。
「空間の振動としての『場』が次々と広がっていき、その『場』による影響がBに力をもたらす」
重力
重力は、ここで示された「力」とはまったく別の原理による力だ。すなわち、「粒子の交換」または「共鳴」によって生じる力ではなく、「超球の衝突」によって生じる力だ。このことは、「超球と超ヒモ」という文書で示したとおり。
参考のために図を示す。次の図を参照。
(超球の密度の高いところ[左方]は、星などのせいで、空間が密になっているところ。
空間内にある物質 ■ については、右から左へと力が働く。)
この考え方を導入すれば、重力は空間からもたらされるものである。そこには「場」としての「重力場」がある。ただし、この「場」は、電磁場などとは根本的に異なる。
この件については、後述の「重力波」の箇所を参照。
力の伝達距離
力の伝達距離には、差がある。
・ 弱い相互作用と強い相互作用は、力の伝達距離がごく短い。
・ 電磁気力と重力は、力の伝達距離がほぼ無限大である。
では、なぜ? 重力は原理が違うから別として、電磁気力ではなぜそうなるのか?
これは、「そういうものだ」と理解するしかあるまい。自然というものは、そういうふうにできているのである。ただし、特に説明をするなら、次のように説明できる。
電磁気力を媒介するのは、光子である。そして、光子というものは、他の粒子とは違って、特殊なものである。光子は、質量がなく、それゆえ、真空中では減衰することなく、どこまでも伝わる。そういうものなのだ。
電磁気力の到達距離がほぼ無限であるということと、電磁気力を媒介する光子の質量がゼロであるということは、同じことなのだろう。そういうふうに理解すると、一応、納得できるだろう。(厳密な説明にはなっていないが。)
マックスウェルのモデル
以上では、「エーテル振動によって力が生じる」というモデルを提出した。これは、荒唐無稽だろうか? 実は、荒唐無稽どころか、きわめてオーソドックスな発想である。というのは、有名なマックスウェルの電磁気学の方程式は、このモデルから生じたからだ。
マックスウェルは、電磁気学の方程式を提出するとき、どうやってこの方程式を考案したか? いきなり天下り的に方程式を書き下したのか? いや、違う。次の手順を踏んだ。
・ 電磁場のあるべき状態を、モデル的に考案した。
・ このモデルの満たす条件を、方程式で書いた。
では、このモデルとは、どんなモデルだったか? それは、次のようなモデルだ。
「真空中を微小な球が満たしており、磁場に沿って微小な球が連なっている。その微小な球が回転している。そこに電磁場の力が働く」
このモデルは、超球理論のモデルと非常によく似ている。特に、「粒子としての光子が真空中を走る」というモデル(コペンハーゲン解釈などのモデル)とは、まったく異なるモデルだ。
そして、こういうモデルを使って、マックスウェルは電磁気学の方程式を提案した。
以上は、歴史的な経緯である。そして、今日の物理学者の多くは、「マックスウェルのモデルはきわめて奇妙なモデルだ」と見なす。
しかし、超球理論の立場からは、マックスウェルのモデルは奇妙どころではない。まさしく電磁気学の本質をつかんでいたのだ。だからこそ、凡百の物理学者がなしえなかったことを、マックスウェルは見事に成し遂げたのだ。
逆に言えば、マックスウェルのモデルと超球理論のモデルは、現代の物理学の標準的なモデルとは異なるが、どちらの物事の本質を突いているのだ。
( ※ なお、マックスウェルのモデルと、相対論のモデルは、超球理論においては統合される。そのことは、先の「超球と超ヒモ」という文書に記してあるとおり。)
【 注解 】
マックスウェルのモデルについて、ちょっと解説しておく。
このモデルがどういうモデルであるかは、文字ではちょっと説明しにくい。そこで、もうちょっとわかりやすいモデルとして、「洗濯機の水流」というものを考えるといいだろう。
回転式の洗濯機は、U を角張らせた形( 匚 を左に 90度回転させた形)の水槽がある。水槽の底辺に、回転盤がある。この回転盤が回転すると、水流が発生する。水流は、次のようになる。
・ 上から見ると、蚊取り線香のような渦巻きに見える。
・ 断面図を見ると、中央の縦線を境に、二つの回転水流が見られる。
いずれも、中央を降下して、底部の回転盤で外側に向う。外側の
壁にぶつかると、上昇する。上昇したあとは、上部で中央に向かう。
これは、台風の空気流と、同様である。(台風の場合は、流れの方向は逆。流れは、中央で上昇し、外側で降下する。)
なお、「渦巻き」と言ったが、流れが高速だと、渦というよりは、ただの同心円状の回転のように見える。
以上は、モデルである。このモデルでは、それぞれの位置では、水流による横向きの力が加わる。これがつまり、「力」と見なせる。
現実の電磁波は、このモデルとは違う。横向きの力が加わるわけではない。また、水流が動いているわけでもない。実際にあるのは、(3次元空間とは別の次元における)エーテル振動だけだ。
とはいえ、「空間における場があって、場の作用によって力を受ける」ということのイメージを、おおまかにはつかむことができるだろう。
要するに、洗濯機では、底にある回転盤が直接、水中にある洗濯物を回転させているのではない。回転盤が水流全体を回転させて、「場」をつくる。その「場」による力を通じて、間接的に、洗濯物を回転させている。
ここでは、次のことが重要だ。
・ 回転盤から直接的に力が作用しているのではない。(遠隔作用ではない。)
・ 水がぐるぐる回っているので、水を交換しているように見える。だが、「水の交換」が
力をもたらすのではない。「場」という概念の方が本質的だ。
なお、以上はあくまで、比喩である。科学的なモデルとは異なるので、そのままでは受け取れない。全体的にわかりやすく理解できれば、それだけでいい。
結論
力とは何か? これについての結論は、次のようにまとめられる。
(1) 古典力学では、次のように説明された。
「二つの物体がたがいに引き合ったり反発したりする。それはこの宇宙の原理による。その原理を、数式の形で書くことができる。引力や電磁気力の法則など。ただし、力とは何かという根源的な理由は、わからない」
力
● ────────→ ●
(2) 現代の量子力学では、次のように説明された。
「二つの量子がたがいに引き合ったり反発したりする。それは量子力学の統一理論から得られる。また、一般相対論からも得られる。その二つは、今のところ、統合されていない。つまり、本質はわかっていない。……なお、量子力学では、力は『粒子の交換』というふうに説明される。だが、粒子の交換というのが何のことなのか、という根源的なことはわかっていない。特に、非常に大きな粒子を交換するというのがどういうことなのかは、不思議である。また、非常に長い距離で離れた物質の間で、どうやって粒子の交換をするのかも、不思議である。(例。1億光年の距離で離れた物質の間では、粒子の交換に往復2億年がかかりそうだが、そうならないのが不思議である。)」
粒子の交換
● ○←──────→○ ●
(3) 超球理論では、次のように説明される。
「二つの量子がたがいに引き合ったり反発したりする。それは二つの量子が直接的に力を及ぼし合うからではない。超球に満ちた空間としてのエーテルがまわりにある。エーテルの振動する空間状態が『場』である。この『場』からの作用が力だ。── だから、『量子A,Bの間に(直接的に)力が働く』というふうに考えるべきではない。むしろ、こう考えるべきだ。『量子Aが周囲のエーテルを振動させる。エーテル振動を受けた量子Bが(エーテルから間接的に)作用を受ける。その作用が、力である』と。」
※ ● と ○ との作用は、「呼吸」である。
● ))) ○ )))))))))))))) ○ ))) ●
エーテル振動
● ((( ○ (((((((((((((( ○ ((( ●
上の (1)(2)(3)はそれぞれ、「遠隔作用」「近接作用」「エーテルの場」というふうに見なせる。
※ 現代の量子論(近接作用を唱える)でも、電磁場などの「場」を想定することもある。しかし、その「場」は、何らかの実体のあるものではなくて、計算上だけに存在するものであり、仮想的なものである。そこに作用する仮想光子などの仮想粒子もまた、計算上だけに存在するものであり、仮想的なものである。(つまり、「真空は何もない空間だ」ということ。「場」の結果を計測することはできても、「場」そのものを計測することはできない。山という地形ならば、地形そのものを計測することができる。だが、真空中にある「場」そのものを計測することはできない。山は存在するが、真空中には何も存在しない。)……従来の発想ではそうだ。
※ 一方、超球理論(エーテルの場を唱える)では、超球はまさしく実体のあるものだ。超球は、すべての基盤だ。あらゆる量子は、超球の一面であるにすぎない。超球という基盤の上に、あらゆる量子が成立する。
※ 超球理論では、以上のように説明される。少なくとも、重力以外の力は。
※ では、重力はどうか? 重力は、『超球の振動』ではなく『超球の衝突』という形で説明される。
新たなモデル
上記の比喩的なモデルとは違って、学術的なモデルもある。詳しい説明は省くが、概要は以下の図からわかるだろう。
(1) アンペールの法則
アンペールの法則(右ねじの法則)は、次の図で説明される。
(2) ファラデーの法則
ファラデーの法則(左手の法則)は、次の二つの図で説明される。
これらの図がどういうことを意味するか、ということは、話が長くなるので、ここでは説明しない。面倒をいとわずに、物理学的な説明を知りたければ、次の文書を読んでほしい。
→ 電磁場のモデル
参考
参考となる話を二つ記す。(重力波の話と質量の話。特に読まなくてもよい。)
重力波
重力波というものは存在するのだろうか? これを問題として扱おう。
現代の量子論(標準理論)では、「弱い相互作用」「強い相互作用」「電磁気力」という3通りがある。これらは「統一理論」によって統合された。そこで、(4番目の)「重力」が問題となる。これについて、次の発想が生じた。
「(4番目の)重力もまた、他の三つの力と同様に、他の三つの力を拡張する形で、統合されるだろう。そういう統合をなす理論(超大統一理論)がいつか完成するはずだ」
こうして、「超大統一理論」が予想された。これは、「たぶん……だろう」という形の予想である。
では、本当にそうなのだろうか? 実は、超球理論では、この予想は全面否定される。すなわち、次のようになる。
「重力は、他の三つの力とはまったく異なるものだ。重力は、他の三つの力を拡張する形で、統合されることはない。この四つをまとめて統合をなす超大統一理論は、決して誕生しない。根源的に誕生しえない」
これは、「たぶん……だろう」という形の予想ではなく、「決して……ない(ありえない)」という形の強い否定だ。
このことを、以下で説明する。
(1) 予想のあやふやさ
まず、「超大統一理論が存在するだろう」という予想の根拠を否定しておこう。
この予想には、まったく根拠がない。それは単に、「二度あることは三度ある」「三度あることは四度ある」という、当てずっぽうの予想だ。
こんなものは、科学でも何でもない。ただのヤマカンにすぎない。それが真実を当てているという根拠は皆無である。次の「たとえ話」を参照。
【 たとえ話 】
ある男は、階段を1段上ると、1ランク上がった。「小成功!」と喜んだ。(1段目)
彼は、階段をまた1段上ると、また1ランク上がった。「中成功!」と喜んだ。(2段目)
彼は、階段をさらに1段上ると、さらに1ランク上がった。「大成功!」と喜んだ。(3段目)
彼は調子に乗って、さらにもう1ランク上がろうと狙った。そこで足を踏み出して、もう1段上がろうとした。……では、その結果は? 彼はうまく成功しただろうか?
( ※ この男の名前は、「量子力学者」または「超大統一理論信奉者」である。)
→ → → →
┌┐
┌┘│
┌┘ │
──┘ │
( ※ 教訓。人は過去の成功体験にとらわれる。老人ほど、そうである。)
(2) 重力と量子力学
では、重力と量子力学とは、どう関係するのか? これまでの量子力学では「まったくわからない」というありさまだった(統一的に説明する理論がなかった)。
だが、超球理論では、こう説明できる。「重力と量子力学とは、まったく異なる範囲の理論である」と。次のように対比する形で。
・ 三つの力 …… エーテル振動によって生じる力
・ 重 力 …… エーテルの粗密によって生じる力
両者は異なる原理によって生まれる力だ。このことが、超球理論の立場からわかる。
図式的に書くと、次のようになる。
超球理論 エーテル振動による力 エーテルの粗密による力 弱い相互作用
強い相互作用
電磁気力
重力
量子力学 一般相対論 × 超大統一理論 (?)
要するに、 それぞれはまったく異なる原理によって生じる力であるから、(上記の四つの力をすべて統一的に記述するような量子理論としての)超大統一理論はあり得ない 、ということになる。
【 注記 】
※ 三つの力が「エーテル振動による力だ」ということについては、先のエーテル振動の箇所で説明した。
※ 「重力がエーテルの粗密による力だ」ということについては、先の「重力」箇所で説明した。
※ 「超大統一理論が存在しない」と言えるが、それは「物理学的に何もわからない」ということではない。三つの力については「統一理論」で説明できるし、重力については「一般相対論」で説明できる。……それで十分だし、何も不足はない。一つの数式で表現することはできないというだけのことだ。もともと別の分野のことなのだから、それはそれで当然のことだ。
(統一した数式で表現できなくても、統一した発想で説明できればそれでいい。)
(3) 重力衝撃波
では、重力波というものは、まったく存在しないのだろうか? つまり、重力波は観測されないのだろうか? 実は、そうでもない。
重力波というものを、次の二通りに区別することができる。
・ 重力という力をもたらす量子論的な重力波 (量子論的重力波)
・ エーテルの粗密が空間で伝達する形の重力波 (重力衝撃波)
この二つのうち、前者は否定されるが、後者は否定されない。
このことを理解するには、次の比喩を理解するといい。
「海には二種類の波が存在する。表面波の形で伝わる波。水中を伝わる音としての波」
前者は、普通に海の表面に見られる波であって、「横波」だ。一方、水中の音波は、「縦波」だ。
力の原理となるのは、超球の回転によってもたらされるものであり、これは「横波」に相当する。実際、電磁波は横波である。量子力学で論じられるのは、横波だ。
一方、重力をもたらすのは、空間におけるエーテルの粗密だ。とすれば、超新星の爆発によって衝撃波が生じれば、そこにおいてエーテルの粗密が生じるから、重力の変動が生じる。その意味での「重力波」つまり「重力衝撃波」というものならば考えられる。
(4) 整理と図式
ここまでの話を整理して、図式的に書くと、次のように書ける。
(a)量子論的な重力波
● 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ←○
波としての重力波 波による力
(b)超球理論における重力
● ||||| | | | | | | | | | |←○
エーテル空間の粗密 空間から作用する力
(c)重力衝撃波
● | | ||| | | | | ○ …… T1
● | | | ||| | | | ○ …… T2
● | | | | ||| | | ○ …… T3
衝撃波の伝播 力なし
これらの図式について解説すると、次の通り。
特に、最後の点は、重要だ。ここから、次のことが結論できる。
- 量子論的な重力波があるとすれば、それは、三つの力と同様、エーテル振動の一種である。エーテル振動が力をもたらすはずだ。しかし、そんなことはありえない。
- 超球理論における重力は、エーテルの粗密による力である。これは、エーテル振動とは関係ない。
- 重力衝撃波は、(超新星の爆発などで)エーテルの粗密が伝播するものだ。このような形の重力の変動は、波として観測可能だろう。ただし、それによって(重力という)力がもたらされるわけではない。
「重力衝撃波」としての形の「重力波」は、検出可能だ。ただし、このような「重力波」が検出されたからといって、「重力波が力をもたらす」とは言えないし、「超大統一理論の証拠が見つかった」とも言えない。その証拠に、たとえ重力波が検出されたとしても、重力波の検出を受けた物体には、力が(実質的に)作用しないはずだ。ともあれ、ここまでの話をまとめて、次のように結論しておこう。
つまり、重力波の影響を受けた物体は、重力の影響で引っ張られることはない。瞬間的に引っ張られたあと、次の瞬間には元の方向に押し戻されるはずだ。上の図でいえば、 ||| という密なる重力衝撃波が襲った瞬間に、 ○ は一瞬だけ左に引っ張られて移動するが、その一瞬後には、 ○ は右に押し戻されて移動する。差し引きして、何も起こらなかったのと同じである。
仮に「力をもたらす重力波がある」とすれば、「重力波が襲ったあとで、 ○ は一瞬だけ左に引っ張られ、その後、慣性の法則により、 ○ はずっと左に移動し続ける、……というふうになりそうだ。だが、そうはならないはずだ。
量子力学の理論とは、量子の波動性を原理とした理論である。それは、エーテル振動としての力には適用されるが、エーテルの粗密としての力(重力)には適用されない。
三つの力は、量子力学で[波として]説明されるが、重力は、一般相対論で[空間の歪みとして]説明される。
この両者は、別の原理と別の方程式をもつ。統一された原理と統一された方程式などは存在しない。
(5) 理論的整合性
以上では、「量子論的な重力波は存在しない」ということの理由として、「量子力学の力(エーテル振動)と、一般相対論の力(エーテルの粗密)とは、別の原理だからだ」ということを理由とした。
ただし、このことは、根拠としては十分ではない。なぜなら、「別の原理だから、別の力だろう」ということを推定しているだけであって、「両者が共存する」という可能性を強く否定していないからだ。
しかし、できれば、「両者が共存する」という可能性を強く否定したい。つまり、両者がたがいに矛盾することを証明したい。それは可能か?
厳密な数学的証明ではないが、おおむね可能である。そのことを次に示す。
重力レンズというものを考える。
重力レンズは、一般相対論では、「空間の歪み」として説明される。ここを光が走れば、光は空間の歪みに沿って曲がる(ように見える)。
このことは、超球理論でも「空間の歪み」として原理的に説明される。(「超球と超ヒモ」のページの後半の「重力レンズ」の箇所。)
さて。歪んだ空間を、光が走るのならば、それでいい。光の波は、空間の歪みに沿って、走るだろう。
では、歪んだ空間を、重力波が走るのならば、どうなるか? 重力波は、空間の歪みに沿って、走るだろうか? いや、そんな簡単には済まない。重力波は、重力の源であるから、重力波そのものが空間の歪みと等価であるはずだ。
とすれば、次のようになるはずだ。
後者の場合、重力波と重力レンズの効果が、たがいに影響しあって(干渉しあって)、非常に複雑なことになるはずだ。そして、その場合、一般相対論のきれいな結論は、得られないことになる。……これは、一般相対論を否定する結論になる。
- 光が重力レンズを通ると、光は曲がる。
- 重力波が重力レンズを通ると、重力波が重力レンズという空間そのものを歪める。
しかしながら、理論の美しさや簡潔性からいって、一般相対論を否定するというのは信じがたいことだ。むしろ、次のように理解するべきだろう。
こうすれば、理論的にきれいになる。すべてはきれいにきっちりと説明される。
- 光が重力レンズを通ると、光は曲がる。
- 重力波というものが、重力レンズを通ることはない。重力に影響するものとして考えられるのは、エーテル空間の粗密だけである。つまり、一般相対論の効果をもたらすものだけである。それ以外のもの(重力波)は、存在しない。
要するに、こう言える。
「量子論的な重力波というものを想定すると、理論がきれいに整合的にならない。この世界の真実が、美しく簡潔に表現されるものだとすれば、量子論的な重力波というものは、あってはならない」
量子論的な重力波というものを考えなければ、この世界の真実は、美しく簡潔に表現されるのだ。とすれば、そういう体系のなかで、あえて「量子論的な重力波」という変なものを持ち込む必要はないのだ。
簡単に説明できるときに、あえて余計なものを持ち込んで複雑化させるならば、そのような複雑な方法は、たいてい真実ではない。……こういうふうに確信していいだろう。(「オッカムの剃刀」という原理。詳しくは Wikipedia を参照。)
( ※ 以上では、「余計なものは不要だ」という立場で説明したが、おそらく、「余計なものを持ち込むと、不具合な結論が出る」というふうになるだろう。そのことは、証明してはいないが、十分に予想される。)
(6) ゲージ対称性
より本質的に考えよう。すると、次のことが言えそうだ。
「三つの力には、ゲージ対称性が成立するが、重力には、ゲージ対称性が成立しない」
このことの根拠は、次の箇所にある。
→ 細々とした周辺的な話題 (「3の対称性」の箇所)
要するに、この宇宙の空間は3次元であり、それゆえ、3種類の力は対称的に成立する。しかしながら、重力は、それらとはまったく異なる原理による力だ。
したがって、三つの力にはゲージ対称性が成立するが、重力にはその方法は成立しない。「三つの例で成功したから、四番目でも成立するだろう」という予想は、当たらないのだ。(この宇宙の空間3次元だから。3次元空間では、三つの次元までは対称性が成立するが、四つ目の次元には対称性が成立しない。力も同様。)
【 たとえ話 】
三匹の動物がいた。ブー、フー、ウー、という名前の三匹だ。もう一匹、ウルフという名前をした、悪い動物がいた。……そういう童話を読んだ人は、こう考えた。
「『ブーは子豚だから、フーとウーも子豚だろう』と予想したら、その予想は正しかった。大成功。ゆえに、『ウルフも子豚だ』と予想していいはずだ。この予想はきっと当たっているだろう」
そう考えた人の名前は「量子力学者」である。
彼は、「あわせて四匹をまとめて、仲良く一つの小屋に入れよう」と決めた。しかし、入れたときには四匹だったが、翌日に見ると、なぜか、一匹しかいなかった。
ヒッグス粒子
( ※ 本項は、あまり重要な話ではないので、特に読まなくてもよい。)
標準的な理論では、物質に質量を与えるものとして、「ヒッグス粒子」というものが考えられている。この発想は、超球理論の発想に矛盾するわけではない。
まず、ヒッグス粒子というものは、真空中に充満する粒子であり、ヒッグス場を構成する。普通の素粒子が運動すると、ヒッグス粒子の抵抗を受ける。その抵抗が、質量として発現する。……これが、ヒッグス粒子というものだ。(詳しくは、世間にある他の解説文書を参照。)
こういうヒッグス粒子は、超球理論と比較すると、次のように言える。
第1に、「真空に充満する」という点では、超球と同様である。また、「素粒子にぶつかって抵抗となる」という点でも、超球と同様である。
第2に、「実数の粒子として三次元空間に存在する」という点では、超球と異なる。超球は、「複素数の粒子として、10次元空間に存在する」からだ。
原理の点だけならば、ヒッグス粒子は、超球理論と整合的に組み合わせることも可能だ。ただし、その際には、これが超球であること(複素数の粒子として、10次元空間に存在すること)という、補正を受ける必要がある。さもないと、相対論と不整合になるからだ。
実際、現在の枠組みで、ヒッグス粒子を取り込むと、相対論的な効果がちょっとうまく扱えないようだ。(実際、量子力学と相対論とは、さまざまな点でうまく統合されない。)
というわけで、相対論との整合性を取るためにも、ヒッグス粒子というものは、その原理を残したまま、超球理論の発想で補正を受けるべきだろう。
最後に
最後に一言述べておこう。
この和文文書で説明したことは、「力とは何か」ということを、超球理論の概念を使ってうまく説明することだ。それ以上のことは記していない。(専門的になるからだ。)
もっと詳しいことを知りたければ、英語版を参照のこと。専門的で高度な話になるが、英語版には細かな説明などもいろいろと記してある。
なお、誤解されないために、注釈を一つ。
本文書では「エーテル」という言葉を使った。この「エーテル」は、19世紀物理学で述べられた「エーテル」とは異なる。混同しないこと。
19世紀物理学で述べられた「エーテル」は、媒体となる物質である。それはあくまで物質であり、実数の値を持ち、3次元空間に存在するものだ。ゆえに、観測可能なものだ。しかしながら、それは否定された。
本文書で述べられた「エーテル」は、複素数の値を持ち、3次元空間の外にあるものだ。ゆえに、物質ではないし、観測不可能なものだ。
この両者(それぞれのエーテル)は、まったく異なる。詳しくは、「超球と超ヒモ」を参照。(あえて区別するときは「複素エーテル/実数エーテル」というふうに別の言葉で呼んでもよい。)
余談
余談となる周辺的な話題をめぐって語る。
初心者への解答
「力とは何か?」という初心者の疑問がある。( → 該当サイト )
これに対しては、専門家から、次のような回答が来ることが多い。
「素人の疑問には、困ったものだ。力というものは、数式で表されるだけだ。それ以上でもなければ、それ以下でもない。力について知りたければ、物理学を勉強しなさい。そして、数式を理解したときに、力とは何であるかを知ったことになる」
しかし、そのような回答は、知ったかぶりをする専門家の「論点そらし」にすぎない。
なぜなら、「何であるのか?」と初心者が尋ねているのに対して、「どういうものであるか」というふうに答えているだけだからだ。(このことは初心者も指摘している。専門家の方が、論理力がないようだ。呆れた話であるが。)
たとえば、人が「あなたの愛するジョンとは何か?」と尋ねたときに、「身長がこれこれで、体重がこれこれで、体の色がこれこれで」というふうに描写しても、「ジョンとは何か?」という疑問に答えたことにはならない。「何であるか?」という疑問に、「どういうものであるか」を答えても、論点そらしにしかなっていないのだ。
ここではむしろ、「ジョンとはコリー犬である」というふうに示す方が、よほど本質的だ。この犬の体重などを描写するよりも、「犬である」という点を示すことの方が、はるかに重要だし、本質的なことだ。
ともあれ、「何であるか」ということと、「どういうものか」ということとは、異なる。
話を戻そう。要するに、現代の物理学では、「量子とはどういうものであるか」を示すことはできるのだが、「量子とは何であるのか」ということを、示すことはできない。したがって、「力とはどういうものであるか」を示すことはできるのだが、「力とは何であるのか」ということを、示すことはできない。
だから、初心者の「力とは何か?」という疑問には、「わかっていません」と答えるのが正しい。
そうだ。わかっていないことについては、素直に「わかっていません」と答えればいいのだ。わからないことを「わかった」というフリをするべきではない。わからないことは「わからない」と明白に語るべきだ。なのに、無理に知ったかぶりをするから、初心者にうまく答えられなくて、下手な強弁(論点そらし)をすることになる。
上記のサイトでは、専門家が、わかっていないことについてわかったフリをするから、初心者に対して論点そらしのゴマ化しをするハメになり、その論点そらしを見抜かれてしまうわけだ。(まともに答えずに論点そらしの国会答弁をする首相が、国民から馬鹿にされるのと同様だ。)
わからないことは「わからない」と語ること。これは大切だ。なぜなら、わからないことをわからないと自覚することによって、その先の未知の領域へ進めるからだ。
そのことは、科学の歴史を見ても、わかるだろう。
たとえば、「亜鉛とは何か?」という疑問があった。この疑問に対しては、「これこれの性質がある」とか、「これこれの化学反応がある」ということは、昔から知られていた。ただし、その以上のことは、なかなかわからなかった。
19世紀には、(元素論的な)化学の立場から、「周期律表で30番目の箇所にあたる元素」というふうに説明された。ここで素人にさらに説明を求められると、化学者は、「化学ではそういうふうになっているんだ。化学を学べ。それで十分だ」というふうに述べて、それ以上の説明を拒否した。(化学)
しかし、原子というものが知られると、「亜鉛とは何か」ということは、原子や電子という概念を使って説明されるようになった。(原子論)
さらに、「原子や電子とは何か」という疑問についても、そのあとで量子力学が発達することで、「量子」という概念を使って説明されるようになった。(量子論)
ここでは、次の三つの段階があった。
・ 化学
・ 原子論
・ 量子論
化学における「それは何か?」という疑問には、原子論の概念で説明される。
原子論における「それは何か?」という疑問には、量子論の概念で説明される。
量子論における「それは何か?」という疑問には、量子論の先の学問の概念で説明される。
そして、量子論における「力とは何か?」という疑問は、上記の最後の疑問に相当する。この疑問は、量子論の範囲では答えられない。量子論においては、「量子とはどういうものか?」という疑問に答えることができるだけで、「量子とは何か?」という疑問には答えられない。
とすれば、「量子とは何か?」または「力とは何か」という疑問には答えるには、その先の議論が必要になるのだ。── 化学の疑問に答えるには、原子論が必要だったように。原子論の疑問に答えるには、量子論が必要だったように。
なのに、前述の専門家は、素人の疑問に対して、「そんな疑問は無意味だ。量子や力とはそういうものだと理解しておけばいい」というふうに、回答を拒否する。
しかし、科学者がそのような立場を取ったならば、歴史上で、化学から原子論へという進歩もなかっただろうし、原子論から量子論へという進歩もなかっただろう。
まとめて言おう。
「力とは何か?」という疑問は、「量子とは何か?」という疑問と、同じことである。そして、それを知るのは、量子論の範囲ではわからない。量子論は、「量子とはどういうものか」ということを探るだけであり、「量子とは何か」ということを探りはしないからだ。「量子とは何か」ということを探るのは、量子論の役割ではなくて、その先にある理論の役割だ。
とすれば、われわれがなすべきことは、「量子論においては力の本質はわからない」と理解した上で、「量子論の先にある理論を求めよう」とすることだ。そのときに必要なのは、量子論の(既存の)知識ではなくて、いまだ判明していない未知の領域へ突き進もうとする、フロンティア精神だ。
科学者の役割は、知ったかぶりをすることではない。知らないことは知らないと自覚した上で、知らない領域へ踏み出そうとすることだ。ちょうど、かつて物理学者が、原子論から量子論へと踏み出そうとしたように。
( ※ フロンティア精神について、より詳しい話は → 「本サイトの意図」を参照。科学的態度という話題で説明している。)
( ※ 未知の領域に踏み出すと、どうなるか? 実は、それを示したのが、本文書だ。前の文書[超球と超ヒモ]においては「量子とは何か?」という問題に答えることができた。その上で、本文書では、「力とは何か?」という問題に答えることができた。)
* * * * * * * * * * *
【 参考 】
以上に述べたことと同趣旨のことは、ニュートン力学にも当てはまる。そのことは物理学者によって指摘されている。
→ Google 検索
要するに、「 F = ma 」というニュートンの法則において、力 F が何であるかは、定義されていない。ニュートンの法則で定義されているのは、三つの変数の関係だけであって、それぞれの変数が何を意味するのかは、わからない。つまり、力とは何かは、わかっていない。
これは、上で述べたことと同様である。つまり、ニュートンの法則における「力」が何であるかは、ニュートンの法則の範囲内ではわからず、その先にある理論[量子論や相対論]を必要とする。
《 やや専門的な話 》
数学的には、上記のことは当然である。
ある公理系 S があったとき、S という体系の内部で定理などが演繹されるだけであって、公理系 S そのものについては公理系 S からはわからない。また、公理系 S における無定義語(たとえば F )が何を意味するかも、公理系 S からはわからない。これらについて知るには、公理系 S の先にある理論(一段上から見下ろす理論)が必要だ。
ニュートン力学であれ、量子力学であれ、その体系内では、「力」は無定義語である。その理論体系では、「力はどのような性質をもつか」ということはわかるが、「力の本質は何か」という根源的な話は述べられない。
このページについて
氏 名 南堂久史
メール nando@js2.so-net.ne.jp
URL http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/physics/force.htm (本ページ)
http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/physics/quantum.htm (表紙ページ)
[ THE END ]