後日解説編


 このホームページを公開してからしばらくたっているが、途中、いろいろと変更があったりした(しかも修正前の文書も残されている)ので、見通しが付きにくくなっている。そこで、最新( 2010年8月 )の時点で、区体論とはどういうものか、その概要ないし核心を示しておこう。
 区体論の概要ないし核心は、次の通り。
  1. 区体論は、集合論に似ている。ほぼ等価である。
  2. 区体論は、閉じた体系である。つまり、「体系全体」を表示できる。
  3. 区体論は、集合論と完全に等価ではない。集合論よりも弱い体系である。
  4. 区体論のめざすことは、数学の基礎理論である。
  5. 数学の基礎理論として大切なのは、体系の豊かさではなく、体系の厳密さである。
  6. 区体論は、部分的には、完全性や無矛盾性が証明される。
  7. 区体論は、弱い体系なので、他の公理を追加することで、豊かになれる。
  8. 区体論は、自然数公理を含まない。(別途、追加の必要がある。)
  9. 区体論は、可算区体論と連続区体論とがある。両者は別々の数学空間をなす。
  10. 可算区体論は、可算までの範囲を扱う。連続区体論は、実数までの範囲を扱う。
  11. 連続区体論では、実数は無限小として扱われる。(点ではなくて。)
  12. 無限小は、四則演算などの初歩的な数学では、点と同様に扱われる。
 以上の各点について、以下で説明しよう。


 《 注記 》
 用語については、途中で次のように変更された。
   仮表示形  →  可算区体論
   正表示形  →  連続区体論
 古い文書では「仮表示形」と表示しているものは、新しい文書では「可算区体論」と表示される。
 古い文書では「正表示形」と表示しているものは、新しい文書では「連続区体論」と表示される。
 どちらもほぼ同じことを意味しているが、用語が違っているので、注意のこと。
 なお、意味的にも、少し違っているが、それは特に期にするほどのことはない。
( ※ 詳しくは 用語の変更 というページ。)


1. 区体論は、集合論に似ている。ほぼ等価である。

 区体論は、集合論に似ている。数学の世界における位置づけは、集合論とほぼ同じである。
 なお、注意。区体論は集合論を、否定しているわけではない。むしろ、別の体系だ。その位置づけは、ユークリッド空間と非ユークリッド空間のようなものだ。どちらか一方が正しいというわけではない。それぞれ別々の公理系を持ち、別々の数学的空間を作る。それだけのことだ。
 いずれにしても、別々の数学空間を作るわけだから、あとは、応用の問題となる。ユークリッド空間の公理系があれば、それを適用する空間を考えられるし、非ユークリッド空間の公理系があれば、それを適用する空間を考えられる。それと同様に、集合論の公理系があれば、それを適用する空間を考えられるし、区体論の公理系があれば、それを適用する空間を考えられる。

2. 区体論は、閉じた体系である。つまり、「体系全体」を表示できる。

 ではなぜ、集合論に対して、区体論という新たな体系を導入するのか?
 実は、その理由は、いちいち考える必要はない。数学というものは、役に立つから研究するのではない。何らかの数学的空間を公理的に構築できれば、その数学的空間を数学的興味だけで研究すればいい。応用は、後から付いてくる。たとえば、群論がそうだ。群論の数学的空間は、単に数学的興味だけで、研究された。その後、それが実際に役立つ応用面が出たが、それはずっと将来のことだ。数学者は、いちいち応用のことまで考えなくてもいい。
 ただし、である。区体論には、集合論に対して、最大の長所と言える点がある。それは、次のことだ。
 「体系全体が閉じた体系である」
 これこそが区体論の最大の特徴だ。区体論では、「体系全体」を表示できる。それは、次のように表示される。
  Ω …… 区体論における体系全体

 この Ω は、可算区体論に限って使用されることもあるが、連続区体論において使ってもいい。
 ただし、特に区別するために、連続区体論においてび体系全体は、別の記号 Σ で示してもいい。(ファイルによっては  Ψ  という記号を使うこともある。いずれにせよ、書法の問題だから、記号はどうでもいい。)
 大事なのは、「体系全体」を記号で表示できるということだ。この「体系全体」は、次のことを意味する。

  ・ 可算区体論における体系全体 …… あらゆるアトムの総和
  ・ 連続区体論における体系全体 …… あらゆる無限小の総和

 このようにして、体系全体を表示できる。これが区体論の最大の特徴だ。

 区体論では、区体論の枠内で、「体系の全体」を表示できる。これがつまり、「区体論は閉じた体系である」ということだ。
 このことによって、次の著しい特徴を得る。

 「区体論の世界では  ∀  という限量記号で修飾される要素(つまり区体)が、明確に提示される」

 たとえば、  (∀y)  というような表現をしたとき、この y の範囲は、「あらゆる区体」つまり「体系全体の任意の区体」というふうに明示される。(可算区体論で。)
 また、同様のことを、「任意のアトム」または「任意の無限小」という形で表現することも出来る。
 いずれにせよ、ここでは、「体系全体」というものが明示されているから、その意味することは明らかだ。これが区体論における最大の特徴となる。

 [ 付記 ]
 集合論では、そうではない。
 集合論では、「体系全体」を表示できない。「あらゆる集合」というものは、想定したら、「クラス」という言葉によって表示されるが、それはもはや、集合論の枠外になる。
 集合論で、 (∀y)  というような表現をしたとき、この y の範囲がどれだけの範囲かは、集合論の内部でははっきりとしない。これが集合論の最大の弱点だ。
[ ※ だからこそ、 V=L というような話題で、しばしば議論される。しかし、そんなことをいつまでも議論しているという点からして、集合論というのは曖昧な体系であることになる。 y の範囲がどれだけの範囲かもわからないまま、 (∀y)  というような表現をしているからだ。比喩的に言うと、「クラスの全員が明日の朝礼に集まれ」と号令をかけておきながら、「クラスの全員とは誰か」がわかっていないありさまだ。理論としては、きわめていい加減である。]
[ ※ 逆に言えば、このような いい加減さをなくすことが、区体論の誕生の理由となった。集合論というものが、疑いの余地なく、正しい理論であると信じられたならば、私は区体論というものを構築しようとは思わなかっただろう。集合論における いい加減さをなくそうと考えたときに、「反射律」「推移律」などを基本とする区体論の構想が思い浮かんだのだ。その際、「絶対的に正しいもの」を基盤としようとした。]

3. 区体論は、集合論と完全に等価ではない。集合論よりも弱い体系である。

 先に述べたように、区体論は、集合論に似ているし、ほぼ等価である。だが、完全に等価ではない。集合論よりも弱い体系である。
 特に、自然数公理を含まないので、区体論単独では自然数さえも構成できない。また、可算区体論は(それ単独では)実数を構成できないし、連続区体論は(それ単独では)自然数を構築できない。いずれにせよ、それ単独ではきわめて弱い体系だ。
 区体論によって数学を構築するには、区体論単独ではなくて、いくつかの数学的空間を同時に併用することを必要とする。
( ※ このことは、集合論とは、著しく異なる。集合論は、それ単独で、自然数も実数も構築できる。ただし、実数よりもさらに高い濃度を自動的に構築してしまうという、余計なことも合わせ持つようになる。つまり、「強い方がいい」ということにはならないのだ。……集合論は、数学基礎論としては、「必要以上に強すぎる」のである。そして、そのことは、集合論が矛盾を含む危険性を高める。……また、たとえ集合論が矛盾を含まないとしても、われわれの住んでいるこの宇宙を記述するには、集合論は適していないと思える。なぜなら、われわれの住んでいるこの宇宙は、連続濃度であるからだ。それより高い濃度は、どこを探しても見つからないからだ。仮にあったとしても、この宇宙からあふれてしまうから、そのような理論[連続濃度よりも高い濃度を絶対的に必然とする理論]は、この宇宙を表現するには適さない。)

4. 区体論のめざすことは、数学の基礎理論である。

 区体論が弱い体系であることは、別に、弱点とはならない。単に方針の違いであるだけだ。
  ・ 一つの体系だけですべてを済ませる(集合論)
  ・ 多くの体系を合わせて数学世界を構築する(区体論)
 このような違いがあるが、それは単に方針の違いであるだけだ。別に問題とはならない。
 ではなぜ、区体論は、弱い体系を選ぶのか? これはどうしてかというと、そのことをあえて目的としているからだ。
 一般に、数学基礎論の上に構築される体系は、豊かな体系であることが望まれる。ベクトル空間であれ、解析空間であれ、豊かな成果をもたらす豊かな体系であることが望まれる。
 一方、数学基礎論で大切なのは、厳密さだ。
 区体論は、応用力を大切にするのではなく、厳密さを大切にする。数学的な豊かさは、区体論に要求されるのではなく、区体論の上に立つ理論に要求される。
 たとえば、次の体系がある。
 「可算区体論と自然数公理(ペアノ公理)」
 このような数学空間は、自然数を構成するための最低限の条件だけをもつ。実数のような条件をもたない。それゆえ、その分、厳密性があるのだ。

5. 数学の基礎理論として大切なのは、体系の豊かさではなく、体系の厳密さである。

 体系が弱ければ弱いほど、そこでは厳密性がはっきりとする。このことこそ、数学基礎論で要求されることだし、区体論が目的とすることだ。
 特に、区体論が目的とすることは、数学基礎論における「完全性」と「無矛盾性」だ。これを追求することが、区体論の重要な目的となる。

( ※ ゲーデルの不完全性定理ゆえに、体系の「完全性」と「無矛盾性」は証明されない、と思い込んでいる人もいる。が、それはゲーデルの不完全性定理を誤解していることになる。)

6. 区体論は、部分的には、完全性や無矛盾性が証明される。

 区体論は、部分的ではあるが、完全性や無矛盾性が証明される。
 まず、濃度1のアトムの空間を取ることで、可算区体論が無矛盾であることは簡単に証明できる。これだけでも重要な成果だ。
 さらに、可算区体論は、完全性も証明可能である。(他の人の成果から、完全性が証明可能であることが判明している。)

 このことはゲーデルの不完全性定理に反すると思えるかもしれないが、そんなことはない。ゲーデルの不完全性定理というのは、「自然数論を含む」体系では完全性や無矛盾性が証明されない、ということだ。一方、可算区体論は、それ自体のうちに、自然数論を含まない。それゆえ、ゲーデルの不完全性定理の枠外にある。したがって、そこで完全性や無矛盾性が証明されるとしても、何ら不思議なことはない。
 逆に言えば、区体論は、完全性や無矛盾性が証明されることをめざしているので、自然数論を含まないのだ。ここでは、「豊かさ」を犠牲にすることで、完全性や無矛盾性を獲得している。……ここに区体論の最大の特徴がある、とも言える。
 
[ ※ 「可算区体論に自然数論を追加したもの(可算区体論 + 自然数論)については、完全性や無矛盾性は証明されない。それはゲーデルの不完全性定理ゆえ、当然のことだ。とはいえ、その程度のことは、もはやあまり問題とはならないだろう。]

7. 区体論は、弱い体系なので、他の公理を追加することで、豊かになれる。

 区体論は、豊かさよりも厳密さを追求するので、弱い体系となる。だから、そのままでは、数学世界を構築できない。
 そこで、区体論に別の公理系を追加することで、数学的に豊かな体系となることができる。
 特に大事なのは、濃度の公理だ。区体論は、濃度の公理をもたない。自然数の公理もないし、実数の公理もない。そこで、自然数や実数を構築するときには、別の公理を必要とする。
 ただし、それは、方針の違いであるから、特に問題となるようなことではあるまい。

8. 区体論は、自然数公理を含まない。(別途、追加の必要がある。)

 すぐ上に述べたように、区体論は、自然数公理を含まない。ペアノ公理などで、自然数を構築できるようにする必要がある。
( ※ 集合論では、正則性公理により、体系内で自然数を構築できる。区体論は、そうではない。)

 なお、自然数の構築には、可算区体論とペアノ公理を必要とする。このことで、自然数を構築する。これは、第一段階となる。

9. 区体論は、可算区体論と連続区体論とがある。両者は別々の数学空間をなす。

 区体論では、第二段階として、実数の公理によって実数を構築する。この公理は「実数公理」だ。
 このように、可算区体論と連続区体論という両者は、まったく別々のものである。それぞれ、別々の数学的空間を構成する。
 この点は、集合論とは、まったく異なる。集合論では、「集合論」という一つの体系のなかで、自然数と実数とが共存する。
 区体論では、可算区体論の数学空間と、連続区体論の数学空間は、共存できず、別々の空間となる。(相互に排他的である。一つの空間内では[原則として]共存不可能である。ただし、別々の空間を構成するのであれば、[別の領域で]同時に共存することは可能だ。)

 当然のことだが、区体論では、次の二つは別々のものである。
    1
    1.000000000 ....
 前者は、自然数である。それはと見なされる。
 後者は、実数である。それは無限小と見なされる。
 この両者は、別々の数学空間に属する。混同しないこと。

10. 可算区体論は、可算までの範囲を扱う。連続区体論は、実数までの範囲を扱う。

 可算区体論は、自然数を扱う。つまり、可算までの範囲を扱う。
 連続区体論は、実数を扱う。連続濃度までの範囲を扱う。
 ただし、注意。区体論の実数公理は、集合論の世界の実数公理とは、まったく形が違う。
 連続区体論では、可算区体論の公理8のかわりに、公理9をもつ。これは、「あらゆる区体が分割可能である」ことを意味する。当然ながら、連続濃度の区体が存在することを保証する。
 ただし、そのためには、 2n 分割の段階数 n が可算無限となることが可能であることを示さなくてはならない。そのためには、あらかじめ、可算区体論と自然数公理を必要とする。しかも、それだけでは足りない。現実に 2n 分割の段階数 n が可算無限となることを示さなくてはならない。そして、そのことを示すのが、実数公理だ。
 この実数公理は、数学的な表現が容易ではない。そこで、数学的な表現はしないでおく。単に「実数公理によって、 2n 分割の段階数 n が可算無限となることが可能になったとする」というふうにして、2 分割を結論してしまう。(ただし ∞ は可算無限。)
 ともあれ、このことで、連続濃度の区体を得ることが可能となる。

11. 連続区体論では、実数は無限小として扱われる。(点ではなくて。)

 上記のようにして得たもの(連続濃度の区体)は、その全体数が連続濃度となる。また、実数世界においては、「大きさがゼロ同然」と見なすことができる。それゆえ、これは、「無限小」である。
 ただし、あらゆる方向の大きさがゼロであると考える必要はない。
 たとえば、2次元平面( x - y )における直線( y = a )は、大きさは直線である。それは、x 方向の大きさは無限大であるが、面積はゼロだし、 y 方向の大きさはゼロである。その意味でのみ無限小と見なされる。

 無限小というのは、特に数直線上における大きさとして、大きさがゼロ同然である(点と同然である)ものと考えればいい。
( ※ このことは、あまり本質的ではないので、特に頭をひねって考える必要はない。モデル的な認識だけで十分だ。)

12. 無限小は、四則演算などの初歩的な数学では、点と同様に扱われる。

 無限小は、解析学などの範囲では、無限小(大きさはゼロだが濃度が連続であるもの)として扱われる。
 一方、無限小は、四則演算などの初歩的な数学では、点(アトム)と同様に扱われる。このことがきわめて重要である。
 これが何を意味するかということは、専門解説編 の 7章 実数の構成 に記してある。(特に (5) 準等号と公理8 の箇所。)

 この解釈は、かなりアクロバティックでもあり、発想にはかなりのヒラメキを要する。こういう発想は、集合論の世界には、まったく見出されない。このことを比喩的に示すこともできない。
 ともあれ、この発想によって、可算区体論のアトムと、連続区体論の無限小は、ほぼ等価なものとして結びつけられる。
 「大きさがゼロの点をたくさん合わせると、どうして大きさ無限大の直線になるのか」
 というのは、集合論における素朴な疑問だが、このような疑問は、区体論の世界ではきれいに解決がつく。「無限小」という概念で。
 そこでは、「自然数の世界と、実数の世界とは、根源的に別々の世界だ」ということが、非常に重要な意味を持つ。

 《 参考 》
 「実数とは何か?」
 というのは、非常にわかりにくい問題なのだが、区体論における「無限小」の発想を取ると、実数の本質がきわめて明瞭に理解できるだろう。そしてまた、いわゆる「無限小解析」というものが、どうしてあれほどにも美しくてエレガントであるのかも、明らかになるだろう。
  「無限小解析」は、実数の性質をそのままなぞっているから、核心がそのままきれいに表現されるのだ。
 一方、集合論に基づく「 ε−δ 」方式は、本来は「無限小」であるものを、近似的に「点」として扱うから、きわめて歪んだ醜い数学体系になってしまうのだ。



 結論

 最後に結論ふうに述べれば、次のようになる。

 区体論は、集合論によく似ているが、まったく別の数学空間である。発想からして、まったく異なる。
 しかしながら、そこで生み出される「自然数」や「実数」などの産出物は、集合論の世界の産出物(集合論の「自然数」や「実数」など)と、きわめてよく似ている。
 このようにして、異なる数学空間(異なる公理系)から、よく似た結論が出るようになった。このことは、数学という学問分野において、とても興味深いことだ。
 
 区体論と集合論は、どちらがが正しいということもない。両者は単に別々の数学空間である。
 ただ、区体論には、それなりの長所がある。その長所は、「豊かさ」ではなくて、「シンプルさ」や「厳密性」だ。
 区体論は、いまだ発展途上だが、めざしているのは、「豊かさ」ではなくて、別の方向なのだ。
 
( ※ なお、どちらが豊かであるかは、現時点では判明していない。というのは、「数学基礎論として数学を構築する」ということは、どちらも成功していないからだ。「集合論は数学を構築することができる」としばしば言われているが、これは、厳密には、正しくない。「素朴集合論は数学を構築することができる」ということは、おおむね正しいのだが、「公理的集合論は数学を構築することができる」ということは、正しくない。ブルバキ派の人々が、それをめざしたが、ついに挫折した。区体論の方は、「数学基礎論として数学を構築する」ということは、いまだ実現していないが、将来的には実現することは可能と思える。これはあくまで予想だが。そして、それがもし可能になれば、区体論は非常に豊かな体系だったことがわかる。……また、少なくとも、完全性や無矛盾性では、区体論の方がずっと上である。)




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[End.]