重ね合わせと観測問題

      by  南堂久史


 「重ね合わせとは何か?」という文書の続きで、「重ね合わせと観測問題」という話題を扱う。
 したがって、あらかじめ「重ね合わせとは何か」という文書を読んでおいて欲しい。その文書の続きが、本文書なのだから。


 重ね合わせと観測問題

 先の文書においての「重ね合わせ」の真相を理解すると、いわゆる「観測問題」についてもわかるようになる。


 観測問題とは


 「観測問題」とは、次のことだ。
 もともと複数の状態が「重ね合わせ」になっているのだが、観測者が観測したとたんに、「重ね合わせ」の状態が一挙に解消する。これは奇妙だ。
 たとえば、次の二つの例だ。

 (1) シュレーディンガーの猫の実験で、量子の状態も、猫の状態も、「重ね合わせ」になっている。(猫ならば「生」と「死」の重ね合わせになっている。)だが、猫の状態を観測すると、「重ね合わせ」の状態が一挙に解消する。
 (2) 二重スリット実験で、電子は二つのスリットのうち、どちらを通っているかわからない。つまり、二つのスリットの「重ね合わせ」になっている。だが、どちらか一方のスリットで観測すると、「重ね合わせ」の状態が一挙に解消する。

 この二つの例は、いずれも奇妙である。それが観測問題における奇妙さだ。


 観測問題の本質


 この問題の本質は、次の二つの意味がある。
  ・ 量子力学における誤認
  ・ 誤認を前提とした論理(インチキ論理)

 「量子力学における誤認」というのは、「重ね合わせがある」という認識のことだ。これが誤認である。比喩的に言うと、回転するコインを見て、「表と裏の重ね合わせだ」(表と裏が同時に成立している)というふうに誤認する。これは純然たる誤認である。(すでに示したとおり。)

 「誤認を前提とした論理(インチキ論理)」というのは、次項で述べる。


 インチキ論理


 いわゆる観測問題の核心は、インチキ論理である。すなわち、「誤認を前提とした論理」である。
 「重ね合わせ」というものは、あり得ない。あり得ないものを「ある」と見なす。つまり、前提がおかしい。そして、おかしな前提を取った上で、おかしな結論を採る。
 ここでは、結論がおかしいが、その理由は、論理がおかしいからではない。最初の前提がおかしいからだ。
 一般に、「おかしな前提を取って、その上に正しい論理を構築して、おかしな結論を出す」というのは、インチキ論理である。たとえば、次のような。
 「 1=2 ならば 世界は滅びる」
( 同様の例は、他の箇所でも説明した。
   → 「シュレーディンガーの猫の核心」の「パラドックスの理由」)

 観測問題も同様だ。
 「重ね合わせがあれば → 観測によって波動関数が一挙に収束する」
 という結論が出る。ここでは、前件である「重ね合わせがあれば」というのが、おかしい。おかしな前提から、おかしな結論が出る。ただし、論理は正しい。正しい論理と間違った前提を利用して、間違った結論を出す。── これがインチキ論理だ。


 科学主義との矛盾


 では、このおかしさは、どこにあるのか? いったい、どこがどうおかしいのか? それを説明しよう。

 このおかしさは、一言で言えば、「科学主義との矛盾」である。
 科学主義とは、次のことだ。
 科学的真実は、実験によって検証される。ただの(観念的な)理論でなく、実際に検証されたものだけが、真実だ。
 ここでは、検証の際に、「観測」ということが重要になる。
 
 さて。この科学主義を、重ね合わせに当てはめよう。すると、次のようになる。
 「重ね合わせというものがあるのであれば、それは観測されるべきだ」

 ここで量子力学者は、困ってしまった。
 「重ね合わせ」というものを主張する以上、「重ね合わせ」というものが観測されねばならない。それが科学主義というものだ。しかるに、「重ね合わせ」というものは決して観測されない。自分たちは観測されないものを主張していることになる。これでは、科学主義に反する。(!)

 こうして、袋小路に入ってしまった。どうしようもなくなってしまった。


 小手先の論理


 量子力学者は困ってしまった。そこで、困難を回避するために、論理をいじることにした。次のように。
 「重ね合わせというものはある。だが観測した瞬間に、重ね合わせが解消される」
 これがつまり、「観測問題」の結論(主張)の奇妙さだ。

 では、そんな論理で、いいのだろうか? 
 なるほど、形式的には、困難を回避している。しかし、これは、あまりにも小手先の方法だ。論理をいじっているだけの、くだらない論理遊びにすぎない。
 仮に、こんな論理遊びが許されるなら、次のような主張も許されるだろう。
 いずれも、馬鹿げた論理遊びである。論理をもてあそんでいるだけだ。(ボロがあるので、ボロを隠しているだけだ。)


 真実の認識


 では、どうすればいいか? 馬鹿げた論理遊び(インチキ論理の駆使)をやめればいい。かわりに、真実を認識すればいい。すなわち、次のように。
 「重ね合わせがあるのに、重ね合わせが観測されない、ということはない。もともと重ね合わせなどはないのだ。存在するけれども観測されないのではなく、もともと存在しないのだ」
 
 これが科学主義というものだ。どうしても観測されないような状態は、「あるのに観測されない」のではなく、「ない」と結論すればいい。当り前だ。子供にもわかることだ。
 「あるのに観測されない」というエセ論理を捨てて、「ない」と結論すること。それによって、インチキ論理を捨てて、科学主義を取ることができる。

 では、そのためには? 
 「重ね合わせ」という間違った概念を捨てればいい。そのことによって、真実を認識できる。
 回転するコインを見たら、「表と裏とが重ね合わせの状態にある」とは思わず、「コインは回転している」(表でも裏でもない)と理解すればいい。「重ね合わせ」というような奇妙な認識を捨てて、「回転」という真実を見ればいい。── 真実を見ることによって、インチキ論理を回避することができる。


 粒子と波の二重性


 「重ね合わせ」という概念を捨てること。かわりに「回転」という概念を取ること。── これが、問題の解決の核心だ。
 ただし、このことは、歴史的な経緯からいうと、ちょっと難しい。
 なぜなら、人々は、次のように信じていたからだ。
 「量子は、粒子と波の二重性がある」

 ここでは、「二重性」が主張されている。二重性というのは、重ね合わせのようなものだ。そこで、二重性という概念に慣れ親しんだ量子力学者は、重ね合わせという概念をも取るようになった。

 しかしそもそも、「粒子と波の二重性」などはないのだ。実際、「粒子と波の二重性」が観測されたことは、ただの一度もない。あらゆる量子は、「粒子だけ」か「波」だけか、そのどちらか一方だけが(そのときどきに)観測されるのであって、双方が同時に観測されることはない。
 コインでいえば、「表」または「裏」のどちらかだけが観測されるのであって、「表と裏が同時にある状態」というのは、観測されたことがない。
 とにかく、「粒子と波の二重性」などはない。実際にあるのは、「停止または回転する超球」だけだ。停止する超球は、「粒子」として認識され、(たくさんの)回転する超球は、「波」として認識される。ここには二重性はない。停止または回転のどちらかだけがあるので、粒子または波のどちらかだけがある。(表紙ページで述べたとおり。「性転換」の比喩。)


 波動関数の収束について


 なお、「波動関数の収束」については、次の箇所を参照。
  → 「細々とした周辺的な話題


 まとめ


 まとめて言おう。歴史的には、次のようになる。
  1. 人々はもともと、「粒子と波の二重性」という概念を取った。(これが第一の誤り。)
  2. その上で、「重ね合わせ」という概念を取った。(これが第二の誤り。)
  3. その上で、「観測による波動関数の収束」という概念を取った。(これが第三の誤り。)
 最終的には、「観測による波動関数の収束」という概念を取る。これは間違った結論だ。そして、その理由は、「重ね合わせ」(第二の誤り)である。そのまた理由は、「粒子と波の二重性」(第一の誤り)である。
 
 最初に「粒子と波の二重性」という誤りを取ったから、それ以後のすべてが間違いだらけになってしまった。間違いの上に間違いを重ねて、間違った体系を構築してしまった。
 そして、その間違いを正すには、そもそもの根源を正せばいいのだ。つまり、「粒子と波の二重性」という誤った概念を捨てればいいのだ。

 では、そのためには? 誤った概念を捨てるためには? どうすればいいか? 次の二つのことをなせばいい。
 この二つのことをなせば、真実に到達できる。では、その真実とは? 「量子は(停止・回転する)超球だ」ということだ。





  このページについて

    氏 名   南堂久史
    メール   nando@js2.so-net.ne.jp
    URL    http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/physics/catwja.htm (表紙ページ)


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