ホームページは人生だ

 高田正純さんの「海図のない旅、情報ひとり旅」(日本工業新聞社,1994)を読んで気になっていたフレーズに「情報が個人に集まる時代になってきた」というものがある。この意味をかつて自分なりに解釈して《社会は人間の活動の集積で成り立っているという当たり前の事実は、情報の発信を個人が行うことを意味し、そう言う意味で情報の集積も個人レベルで行われる》というような主張を進めた。

 しかし、これだけでは論として弱い。個人が発信する必然性は述べているが、発信する個人が特定の個人に対して情報を投げる必然性がないからだ。近年になってこの辺の理由が分かってきた。ホームページ群を見てからである。
 かの外崎さんところには「がんばれ!!ゲイツ君」を見た読者からマイクロソフト(CSKも)等の笑える話が集まってくるし、中村正三郎さんのところにはIEのセキュリティホール等の問題が集まってくる。まさに情報がマスコミといった組織ではなく個人に集まるという構造が見て取れる。かくいう私のところにも取り消し機能のあるエレベータの情報が集まってきた。

 ただし、読者がホームページを読んで面白いと思い、自分の知っている情報をメールで知らせてくれるようになるためには、ある程度、いや相当程度の情報を集積してホームページ上で公開しておく必要はある。あるいは一ひねりする。
 例えば「拡張子辞典」と銘打ったページを作るとする。ここで「xls:エクセル、doc:ワード」とかいうレベルのものを並べていたのでは読んだ人から反響があるとは思えない。少なくとも数百というオーダーで並べておく必要があろう。
 あるいは一ひねりして「doc: マイクロソフトワード文書の拡張子として使用されているが、DOSが主流であった時代には一般のテキスト文書の拡張子として使用されるのが常であった。このため、テキスト文書を開こうとアイコンをダブルクリックしたのに、重いMS-WORDが立ち上がるのを待たなくてはならず往生するという事象が頻発したものである。これを回避するために拡張子がDOCでも内容がテキストファイルの場合、テキストエディタで開くよう自動判別してくれるオンラインソフトを書いた人もいる。」くらいのことは必要であろう。少なくともそれくらい書くと読んだ人には役に立つ、かもしれない。
 あ、そうそうポストペットメールの添付ファイルの拡張子って何でしたっけ。一度受けて得体の知れない添付ファイルにびっくりして、ウィルススキャンをかけまくって、こわごわ開くと全然訳が分からないバイナリファイルで「なにこれ、わかんないよー」と返信したことがあります。

 ただし他人が情報を投げたいと思うほど自分で情報を集積するためには相当のエネルギーをかける必要がある。驚嘆してしまったのがこのページ。子どもに童謡を歌ってやろうとして、歌詞を探したのだがなんと曲までついていた。しかも千曲以上!途方もないエネルギーだ。で、やはりこれだけの人のところにはいろいろと情報が集まるようだ。「こいのぼり」の二番の歌詞とかが読者の人から寄せられている。それにしてもこのページにはお世話になりました。おかげさまで子どもと一緒にいっぱい歌を歌えた。お礼のメールを書かないとね。
 なわけで、どなたかプリンタユーティリティの機能比較ホームページとか作ってくれませんか。

 もちろん個人に情報を集積させる基となるものはホームページに限らない。むしろ個人に情報が集積された結果として現代最高のものは、Linuxに代表されるオープンソースのソフトウェアであろう。しかしいずれにせよ、膨大なエネルギーを投入し、更には世の中の人々の役に立った結果として情報が集積されていることには違いない。

 もっとも、個人がホームページを立ち上げるとき、全ての人が自分ところに情報が集まるという路線を目指せというつもりはない。ただし、ホームページ作成のメリットの1つとして、そういう可能性を否定しないでおくことは必要である。少なくとも同好の士から何かリアクションがあることを楽しみにしながら作れるものでありたい。
 だって、そのページで取り上げているテーマについて、誰一人反応がないなんて、そんなものを作っても面白くないでしょう。
 父親のホームページを無理矢理作ったときそれを思った。父親は職業柄、良くスピーチをする。なかなか評判がいい。では父親のスピーチ原稿を借りてきて、コンテンツにすればそれなりに面白いものができるのではなかろうか、と考えて作ってみたのだ。発想自体には無理がない。
 しかし、面白くない。どうにも発展しようがないのだ。これはコンテンツがスピーチという一方通行を前提として書かれたものだからであろう。さらにその場で聞き流すためのものである。これぞ全くレスポンスを期待しない種類のコンテンツだ。

 でも、うちの父親はスピーチくらいはできるということを前向きに捉えていいかもしれない。世の中には「何でもいいから一分間話せ」というと尻込みする人もいるから。つい言ってしまいました「きみは二十何年間生きていて、人前で話すことが一分もないのか。だとすると君の生き方は間違っているぞ。」

 輪番で回ってくる朝礼のスピーチに「ええっ!」と言ったくらいで、人生を否定されたのではたまらない。でも、じゃあ自分に何が書けるかな?と考えたとき、人は大げさでなく人生と向き合っているわけだ。そして、どこかオーバーラップした人生を歩んでいる人の経験をごくごく一部ではあれ、ホームページを通じて集積できたとすれば、少しだけ生存証明ができるというものでしょう。

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