こんな解釈もできてしまった幻想交響曲

 当方の「パンドラの箱の謎」を読んだという人からメールをいただきました。なんでも「希望」をどう表現するか悩んで、「パンドラの箱」なんかどうかなと検索したら当方のページがヒットしたそうです。
 聞くと「希望」の音楽も探しているそうな。当方、音楽となると自動的に反応します。最近音楽関係で頭使ってなかったので、おもしろくなってしまった。

 「希望」の音楽って何があるのだろう。えーと、 あれ、思いつかないぞ。

 ベートーベンは「勝利」や「歓喜」で終わるのはあるけれど、希望で終わるのは・・・ないなあ。オペラは全部人が死ぬし。レクイエムは救いで終わる。宗教音楽に救いへの希望はあるかもしれん。バッハのカンタータ147の真ん中の曲がそうかもしれんが、終曲でも同じ旋律が使われているところを見るとやはり賛美。(要するに「主よ、人の望みの喜びよ」の旋律。)
 ショパンのスケルツォ2番。生への疑問で始まり決意で終わる、その過程で希望を感じることがあってもおかしくはない。どこかに希望の旋律は、、、ううんピンとこない。

 では歌曲。ついでにポピュラー系も入れる。中島みゆきの「時代」珍しくも希望。ただし現世はあきらめている。「おジャ魔女カーニバル」ちょっと元気がよすぎる。
 おお、日本人すべてが希望を感じる歌があった。が、ラジオ体操のテーマ曲というのはあまりにもあまり。

 ではなんで「希望」って曲にしにくいのだろう。これはすぐに分かった。ものすごく具体的な観念だから、音楽のような抽象的な芸術では扱いにくいのである。音楽にしやすいのは、例えば「不安」であり「激情」だ。パンクロックなんか「苛立ち」そのものだ。

 人は具体的な対象が無くとも「不安」を感じる。「なんとなく不安」という表現に違和感はない。(この発見はハイデガー)。同様に「なんとなく苛立つ」こともある。「激情」に至っては修飾語すら拒否する。
 これに対して「希望」はそれが向けられる対象がある。「○○への希求」があって初めて「希望」と呼ぶことが出来る。従って、「希望」の曲を書こうとしても実際にはその「希求する対象」の曲になってしまう。だから希望の曲は作れない。

 イメージとしては「光」のに似ている。
 光自体を見ることはない、光はものを見るための媒介物である。
 従って、光自体を見ようとすると、途方に暮れる。(だから純粋な白という色を見ることはできない。
 また光を定義することもきわめて難しく、パスカルが大失敗しているほどだ。
 「希望」も同じようなものだろう。

 しかし「希望」がそれ単独で存在しうる場合があるのに気がついた。「希望への希求」が成立した場合である。しかしそれは「夢も希望もない」世界で初めて成り立つ。「何の望みもない、せめて希望を持てるような世界だったらなあ」という感じである。つまりそのような世界は災厄で満たされている。

 ここで再びパンドラの箱に戻ってみると、謎がきれいに解けることがわかる。希望がそれ自身で存在しうるのは、災厄に満たされた世界においてのみである。つまりパンドラの箱で災厄と希望が同居していたのは極めて妥当なことであったのだ。
 逆に、純粋な希望は災厄の中でしか存在できない。「○○への希求」があったとして、それは本当に希望であろうか。欲ではないと言い切ることができるだろうか。
 つまり、希望はパンドラの箱から出てきた途端、「欲」という災厄に変質してしまったのだ。ゼウスは正しかった。パンドラの箱というトロイの木馬に入れておく災厄として「希望」は極めて妥当なものだったのだ。(あとで知ったのですが、パンドラの箱は、ゼウスが人間界に送りつけたコンピュータウィルスだったそうです。)

 ここで「希望」音楽への考察は終わりになるはずなのであるが、なぜか希望の旋律が頭をかすったのだなあ。カサドシュ指揮、リール響のベルリオーズ幻想交響曲。

 ここで考えた、もし音楽の世界に閉じたのであれば純粋な希望を表現することもできるかもしれない。「音楽の希求」を音楽にできればよいわけだ。もちろんそれが「この曲で一儲けしたい」になってはいけないから難しい。で、伝説によると幻想交響曲の初演がこのような感じだったそうなのだ。
 いつまで経っても芽のでないベルリオーズは、借金にまみれて、ほとんど何も期待できぬまま、いわば絶望のうちにこの日を迎えたそうな。が、演奏が進むにつれベルリオーズに徐々に精気がよみがえってくる。そしてフィナーレの大喝采。

 このときのベルリオーズに「よっしゃ、これで当てたで〜」なんて考える余裕はない。でもこれからも音楽ができるという予感のようなものは演奏の間響いていたはず。この時のベルリオーズを支えていたものが純粋の希望にごく近くないかなあ。(この時のベルリオーズを支えていたのは音楽家の誇りとか、音楽が出来る喜びという者ではなかったはず。)で、この初演の伝説を想像させてくれるのが、カサドシュ=リール響の演奏なんだな。

 幻想交響曲は、普通は悪魔の跋扈するおどろおどろしい曲として紹介される。ベルリオーズ自身、そのように解釈するようにと、聴衆に文章を配っている。でも、他の解釈したっていいでしょ。ベルリオーズ自身、聴衆に解釈を指示する文書を初演後変更している。(最初は、第4楽章・第5楽章が幻。あとで全曲幻になった。)少なくともあなたがこの曲を振っていたとき、感じたのは希望でしょ。
 でも普通の演奏を聴いてこれを「希望の曲」と感じるのは無理かもしれない。「断頭台への行進 15連発!!」なんてのを聴くと、私だって笑ってしまう。
 カサドシュ=リールの演奏に限定してです。なお、オーディオマニアは買う価値があります。超絶なる優秀録音です。ハルモニアムンディHMC90072です。

 一応の結論が出て、当方満足していたら最初にメールをくれた方から「希望に満ちた世界」という表現があるけどどういう意味だろう、という疑問を投げかけられてしまった。(ここだけ聞くと、この人、言いっぱなしのように見えますが、そんなことはないです。ものすごく考えているのがよくわかります。でないと、私がここまでつられて悩むわけがございません。)

 確かに「希望に満ちた世界」という言い回しを、見落としていた。
 そんなのは単なる表現でまやかしだ、と言うのは簡単ですが、ここまで来たんだ。解きましょう、それ。

 まず「希望に満ちた」という表現が使われるシチュエーションを考える。だいたい入学式、ですな。(入社式になると、退職金が話題になったりして、あまり「希望に満ちた」とは言えなくなる。)
 ようするに「別の社会に足を踏み入れた瞬間で、まだ何も分かっていない時の感覚」である。
 ここまで典型的でなくとも「自分が知らないだけのよいもの」を探したり、見つけた(つもりの)時に、この種の感覚はうまれます。伝統的な言い方をすれば「幸福の青い鳥」「銀の弾丸」。ようするに
 読めば成績が上がる参考書。
 導入すれば業績が回復するIT。
 導入すれば、納期遅れとバグが無くなるプロセス管理。
 やまのあなたのそらとおく、さいわいすむと、ひとのいう
といったものです。これは、以前当方が「ITってイットでいいんじゃ」で思いっきり揶揄した通りです。

 が、この考察のおかげで「純粋な希望」を感じるのがどういう時かを導き出すことはできた。
 「純粋な希望」というのは、前述のように「夢も希望もない」世界で感じる他に、青い鳥を捕まえた(と思った)瞬間、にも感じることは確かなようだ。

 まあ、両者を総合すると、イメージとして
「既知の世界はお先真っ暗」
「でも既知の世界の果てにある壁を越えれば良いものがあるらしい」
「壁に到達するまでの、そして壁を破るための努力」
「壁が壊れた瞬間(のみ)見えた希望」
こんなものでしょうか。

 こうしてまとめてみると、別のシーンが浮かんでくる。2001年宇宙の旅のラスト。
 いまだになんのこっちゃよく分からない映画だが、なるほど、それで最後に「美しき青きドナウ」が脈絡もなくかかるのか。あれは希望の象徴だったのかな。
 似たようなラストシーンを聞いたことが、あったような。THX-1138とかいうジョージ= ルーカスが学生時代に作った映画。管理社会の迷宮を抜け出て地上に立ったところでエンディング。でも見てないんだよな。(ちなみに流れる曲はバッハ「マタイ受難曲」の第一曲目だそうな。)
 ただし、これらの映画は、壁は突破しはするものの、希望に満たされて終わるというわけではないようだ。

 でも、これだというものが一つだけ見つかった。Back To The Future。
 主人公マーティを未来に送り返した瞬間、飛び上がる科学者ドックの気持ち。現実にあり得るシーンではないとはいえ、とても具体的な希望。おれは未来でタイムマシンを作れるんだ!
 実現すると分かっているが故に「欲」から切り離された「希望」といえるでしょう。
 確かに発明したのは自分ではあるが、今の自分ではないので、この先努力はたくさんしなければならない。
 だけど必ず作ることができるという希望を持って研究に打ち込める。科学者として最高の幸福だろうね。

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