独り言



2004年8月3日(火)

1メートルは短い。手を広げるより短い。
しかし、例えば歩道に立っていて、1メートル車道側に居たなら
命を落とすわけで、そう考えると1メートルの違いとは非常に大きい。

1メートルという単位は絶対的でも、そこに人間の価値観が加わると
途端に相対的になるものだとつくづく思う。
…もちろん、1メートルが絶対的だなんて証拠は無いけれど。
記事ナンバー:11


2004年7月27日(火)

他人の日記に自分のことが書かれていると、例え褒められていても微妙なものだ。
それは、おそらく他人にどう見られているか、考えなくてもいい時に考えさせられるとか、
あるいはこれを書いた時にこの人にはどんな打算があったのかな、とか。
そういうことを考えてしまうからかもしれない。

テストがもうすぐ終わって夏休み。休みに自分がどうすごすのか。
楽しみだけれど不安である。昔の生活は悪くなかったけれど、昔の生活に戻りたくは無い。
記事ナンバー:12


2004年7月18日(日)

自分を客観的に見るほどに、主観的な自分の振る舞いが作為的になる。
ふと思ったのは、行動→行動→行動…と繋がっていたのが
行動→(行動の吟味→)行動…となる分ぎこちなくなるのかな、と。

いつか行動力が全く無くなるとしたら、一つの行動を
どれくらい吟味し続けるのかな。
記事ナンバー:13


2004年7月9日(金)

何もやらないうちに時間が経つ。とても悲しくなる。
きっと、新しいことをしていないだけで、習慣的な行動が増えただけで
積み重ねているものは変わらないはずだけれど。

日記は積み重なる。積み重ねて生きたい。誤変換だけど、これでいいか。
記事ナンバー:14


2004年7月5日(月)

義務に追われて疲れた。 疲れた以上、それに対する報いがあると嬉しいものだ。
逆に言えば、そこで報いることができる人というのは好かれる人だと思う。
自分が苦しいときこそ、他人の苦しみを思いやれる人間になりたいものだ。
記事ナンバー:15


2004年7月1日(木)

自分の考えが自分の立場によって変わるのに気付くと、悲しくなる。
思想を転向した人とかも、自覚して自虐的になるのかな。
記事ナンバー:16


2004年6月29日(火)

自分を偽ることで残る痛みと、自分を曝け出すことで受ける無理解とはどちらが苦しいのだろう。
きちんと、それを比較した上で冷静に自分の態度を決められたらいいのに。
記事ナンバー:17


2004年6月25日(金)

中庸って言葉の意味とか、その良さが分かるのは、自分が中庸でないと感じたときだけかもしれない。
でも、中庸ではいけないことも多いかもしれない。

単に追求に疲れたから中庸を言い訳にする、そうありたくは無い。
記事ナンバー:18


2004年6月22日(火)

コンピューターの関数についてはそれなりに分かる。他人のことも多少なり客観的に見られる。

どうして、自分のことが一番分からないんだろうか。
記事ナンバー:19


2004年6月20日(日)

輪環は回れど、位置は変わらず。
これを動いていると見るか動いていないと見るかは重要である。
例えば、海→雲→雨→川→海・・・というサイクルを辿る水を
私たちはどれほど意識しているのだろう?
海の水の旅路に興味を持つだろうか?
空から降る水は、海で浮かぶ水だと気付くだろうか?

生まれ、そして死ぬことが回転だとするなら
私は上がるだけ、必ず落ちる
記事ナンバー:20



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