超暇人MSX

人間万事塞翁が馬

禍福は糾える縄の如し

伊福部昭氏の人生について一言でいうと、上の題名や「人間万事塞翁が馬」という言葉になるでしょう。ここで少々脱線しますが(いきなりか!)、社会的であろうが本人の認識であろうが、人生の「成功」や「失敗」は正に運であって、それはコンピュータのライフゲームのような簡単なシミュレーションですら証明されるにも関わらず注1、権力が戦争に傾く際には、必ずと言っていいほど“金持ちは優秀だから金持ちである、貧民は無能だから貧民である”、“人間の能力は遺伝によって決まるので、エライ地位にある人物は元々出来が違うからエライ地位にあるのである”という様な意見が科学の体裁を装って沸いてくるのです。某大国が前世紀の終わり辺りからそーいう事を言い出してます。まあ、政府が傾く時にもそー言うんですけど(^^;)

江戸時代風に言うと、「武士や貴族は偉大なる血を受け継いでいるので王であり支配者である。百姓は下衆な血を受け継いでいるので奴隷である」という感じでしょうか。それをいかにも科学的に見せかけようとする訳です

伊福部昭氏の人生に話を戻すと、伊福部昭氏は8世紀からの由緒がある鳥取県・宇部神社の宮司一族ということですから、遺伝で決まるなら“ワレワレ”が嫌っている西日本である(天皇家も西日本の血であるな)鳥取県代々の宮司の血が伊福部氏の成功を決めたのでしょうか?

 もし明治政府が地方の神社を加護していたら?  もし伊福部家の家屋敷が火事で燃えてしまわなければ?  もし父親が他の土地に職を見つけていたら?  もし父親がアイヌの地に赴任しなければ?  もしバイオリンを習わなければ?  もし作曲を勧めた三浦淳史に出会わなければ?  もし「チェレプニン賞」が開かれなければ?  もし作曲連盟に大木正夫が居なければ?  もし早坂文雄が東宝に入社していなければ?  もし戦時研究員として徴用されていなかったら?  もし知人が日光に山小屋を持っていなければ?  もし小宮豊隆が欧州で伊福部昭の曲を聞いていなければ?  もし森田たまの所に小宮豊隆が泊まらなければ?  もし東宝の掛下慶吉に会わなければ?  もし音楽講師の給料が良ければ?         ・         ・         ・

伊福部昭氏の人生は全く違っていたことでしょう

 

注1.ライフゲームで生き残る(つまり社会で成功する)には能力よりも偶然の要素が     圧倒的に勝る。そりゃ、現実にはありえないほど能力差を付ければ別だろうが、     ありえないほどというのは、ありえないほどだからありえないのだ(はぁ?)

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孤高の伊福部昭

初めて伊福部昭氏の名が本土に知られた1935年のチェレプニン賞〜1980年代のゴジラブームに至る(つまり、伊福部氏の音楽がお金になると分かる注1)までの期間、欧州はイザ知らず、国内純音楽界の伊福部氏に対する評価は大勢(弟子筋にあたる人以外)に於いては、総じて低かったのです。

純音楽界に於ける伊福部昭の低評価に至る過程

●戦前編

徳川幕府の鎖国政策で世界に200年遅れた事を悟った明治新政府は、英国を手本の筆頭に欧州の模倣を始めますが、純音楽に於いて世界の中心はドイツ&オーストリアだったので、官=東京の音楽学校主導で、もっぱらその模倣に勤めます。曰く“西洋古典からの 和声学 + 対位法 を極めた上に、新しい日本の音楽がある”、“それを教えるのは東京上野の官製音楽学校である”

9〜12歳の伊福部昭に強烈な印象を与えたアイヌの音楽や、開拓民が歌う東北各地の民謡は、当時の官主導の純音楽界からは排除されるべきものでした。伊福部昭の中学時代からの親友である三浦淳史の父は北帝大教授で、当時はめずらしい欧州のレコードも集めていました。その中で伊福部昭が惹かれたのは、官推奨のドイツ&オーストリア古典系ではなく、ロシア、スペイン、フランスの比較的新しい世代の音楽でしたし、大学時代に札幌の音楽喫茶に通って好んで聴いた音楽も、官推奨のものではありませんでした。そういうものを参考にして独学で作曲した『日本狂詩曲』が、欧州でチェレプニン賞を獲得します

ロシア(+フランス)音楽のチェレプニンが欧州でいかに有名高名であろうと、政府推奨の楽派ではない彼が主催した賞に高い価値を認めるわけにいかず。その上、東京上野の音楽関係者には一切無関係である“田舎者”の伊福部昭を認めるわけにはいきません。ところが、その抹消したい伊福部昭の書いた『日本組曲』が、ベネチア国際現代音楽祭にまで入選してしまいます

「ウウッ、伊福部昭は凄いのかも??? でもワレワレの方針と違う物を認めるわけには・・・」という事で、結局、純音楽界の対伊福部昭策は

 ・出来るだけ無視  ・無視できないときは批判  ・戦意高揚など利用できる場合は利用する

となったのです

●戦後編

「ワーン戦争負けたー、アメリカの言う事聞かないと酷い目に会うよー。これからは全て、アメリカさまぁーでイかせていただきます」となった東京政府。官直属の純音楽界は「何でもアメリカ様のご命令通り」となり、官でない普通の音楽界は「何でも欧米の流行追従」のお猿さんとなって、日本+アイヌ+ロシア+スペインの伊福部昭の音楽は、またも国際的な賞であるジェノア国際作曲コンクールに『ヴァイオリンと管弦楽のための狂詩曲』が入選しても、やっぱり異端なのでした。で相変わらず

 ・出来るだけ無視  ・無視できないときは批判  ・映画など商売にできる場合は利用する

となったのです

伊福部氏の音楽を批判・否定した「プロ」の音楽関係者の意見を大別してあげると

 1.アイヌ、東北の民謡、ロシアやスペインの手法を元にしているのでパクリ  2.西洋音楽のルール(対位法、和声学)を守っていないから評価できない  3.西ヨーロッパの音楽を元にしていないので下品である  4.西洋音楽のルールを破っているので体制への反逆者である  5.同じモチーフを繰り返すので退屈である  番外.映画音楽をやるなんて純音学の作曲家として邪道

という感じになります。言いたい事は一寸だけ分かりますが、なんというか「家畜さん?」(^^;)

ちなみにプロで無い人の批判

 1.日本だ民族だと言いながら日本の楽器を使わないのは詐欺である  2.どの映画でも同じメロディを使うので手抜きである  3.右翼は嫌い

ヘヘッ(^^;)

 

注1.80年代からCD化された伊福部昭氏の曲のスコアの内、自宅保存以外の大部     分が大阪の「伊福部昭音楽友の会」所蔵である。映画や舞台等でお金儲けした     のは東京、人気が出てからCDにして売ったのも東京。身銭を払って後援して     お金にならない間スコアを保存し、何らの見返りも貰っていないのは大阪

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伊福部昭は●京がお嫌い?

伊福部昭邸が東京郊外にあり注1、職場が東京の大学だったことを捕まえて“東京が伊福部昭を作った”、“伊福部昭は東京人”と誤解させるような表現を使うメディアが見受けられましたので、それについてちょっと書きます

おそらく殆どの人が挙げる伊福部昭氏の代表曲

1933 『日本組曲』(後に『ピアノ組曲』として管弦楽用他にアレンジ) 1935 『日本狂詩曲』 1937 『土俗的三連画』 1941 『ピアノと管弦楽のための協奏風交響曲』 1943 『交響譚詩』 1944 『兵士の序楽』 1954 『シンフォニア タプカーラ』 1959 『ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲』

の内、『シンフォニア タプカーラ』のみが東京に移ってからの作曲注2ですが、その『シンフォニア タプカーラ』も、空襲で楽譜が焼失したと思われた『協奏風交響曲』(ずっと後にパート譜1揃いが発見され、そこから総譜も復元された)の残されたスケッチ譜から作られたもので、結局、伊福部昭氏の音楽そのものは33歳で東京に転居するまでに出来上がっているのです。その後も、主に研究したのはアジアの民俗音楽であり、伊福部昭氏の音楽世界にとって、東京は何の影響も与えていないようです

伊福部昭氏の映画音楽ファンの方で、まだ上記の純音楽に於ける代表曲や『フィリピンに送る祝典序曲』を聴かれていない方には、ぜひお勧めします(一番のお勧めは『交響譚詩』と『兵士の序楽』)。映画の曲を書き始める以前の戦前戦中の曲に、映画で使われたほとんどのモチーフ(音楽になり得る最小のメロディ・リズムの事)が既に出ている事に驚かれるでしょう。逆に『SF交響ファンタジー』の題名で退いている純音楽系の方は、(伊福部昭本人の意図は兎も角)これぞ“伊福部昭ダイジェスト”という曲なので、ぜひ(ちゃんと3番まで)聴いてみてください。他にアニメ映画『わんぱく王子の大蛇退治』より“アメノウズメのオドリ(注3)(後に『交響組曲』化)”もお勧めです

伊福部昭氏は、戦前は最僻地とされた北海道(今でこそ東京の1番のお気に入りですが)の出身、本籍は鳥取県であり東京で学んだ事は無い上、戦前の中学校の修学旅行で京都・奈良に行って以来、大学生になって自分で決めた初めての本土旅行も、ねぶた祭りや四国めぐりで東京は素通りと、ビジネス以外では全く東京に興味の無い人でした。こんな事も言っています

伊福部昭の言葉1

 「東京を中心とした文学は、どうもぴんと来なかった。むしろドストエフスキーやト   ルストイなどロシア文学の方が親しみやすかった」  「戦後になって東京に来てみたら、いつでも満員電車に乗ってるような調子です」  「戦争が終って東京へ出てきたら『けしからん奴が出てきた』と、いろいろと冷たい   目にあわされました。映画音楽の仕事をやれば『あいつには映画がちょうどいいん   だよ』なんて」注4  「(東京の各プロダクションの映画で報酬を)貰ってないのは幾つか有ります。上手   なんですよね。こう一つやって、次をやる時そのギャランティーを持って交渉に来   るわけです。ですが、これをやってから次を払って・・・なんていってると、五つ   やれば三つくらいがタダになるという感じで」  「・・・ですが日本でも、江戸時代から小さくなっただけであって、それ以前はスケ   ールの大きなものがたくさんあったんです」  「江戸時代から後のものは、なんだか皆ちっちゃくて、温泉土産の様に感じるんです。   ・・・中略(温泉土産は見栄えだけよく、小粒で作りが適当で直ぐ壊れると説明)   ・・・奈良の大仏のようなものは、あまりない」  「仁徳天皇陵は世界で一番大きなお墓ですし、奈良の大仏も金仏としては世界で一番   大きいと思いますよ。・・・中略・・・器量が悪くてもいいから、できれば奈良の   大仏を創りたい、というのが私の信念のようなものなんです注5

常々「東京こそが日本」だと国の内外に宣伝・洗脳している連中に対して「それは違うだろう」と言っているようです。更に

伊福部昭の言葉2

 「私などの目から見ると、日本の現代音楽は衰弱しています」  「日本発見というのをディスカバージャパンなんて英語を使わないと分からない程、   日本人の感性はいかれてしまった」  「あまりにもヨーロッパやアメリカの文化が入ってきてしまい、朝から晩まで西洋の   ものにぶつかります。ですから多少警戒しないと、自分の健全な感覚が失われてし   まう。売っている物をそのまま食べていたら、体がいかれてしまう」  「アメリカは、言葉も文字も酒も音楽も宗教も、みんな借り物です」  「・・・ハリウッドには、撮影所の近くに食べられない作曲家が沢山居て、メロディ   やなんかが出来るとそれだけ売りに来るらしいんです。それをストックしておいて、   一本の映画にする時はアレンジする人が居て、それをミュージック・ディレクター   というんですけど。なんか完全分業になっていて、だからその画面観ている間は非   常に良く出来ているんですけど、観終わってしまうと心に何も残らない」  「又一方ジャズ其のものもアフロ・アメリカンの所産であった当初はかなり健康でも   あり、又故郷をしのぶ懐郷情緒を持っていたが、猶太系の作曲家の手に掛かりこの   懐郷情緒は帰るに故郷の無い虚無にとって代わられ、終にデスぺアの泥沼に沈むに   至った。馬鹿騒ぎをするハリウッドを中心とするホット・ジャズさえも、結局一段   と救い難いニヒルに落ち込んでいるのである。」  「特に、戦後重要な支配を振ったアメリカという国が歴史も浅く、文化的に何等独立   した伝統を持たないために、これ等を無視して、只に前進することが近代的なのだ   という風な考を我々に植えつけたのである。」  「(今の人は)ラジオやテレビで音楽番組を聴いて、その内に音楽雑誌を読んで作曲   家になろうと思う。音楽大学に入るわけだけど、その時には訴えるべき何物もなく   って、・・・中略・・・意味ありげな線の細い音楽になるより他無いんでしょう」

こーいう発言は、家畜政府&家畜メディアにしたら憤慨物ですよね

最後に、卆寿(きゅうじゅう)を祝うバースデーコンサート(2004年)の「御挨拶」より

伊福部昭の言葉3

  初めにコンサートを催してくれた関係者への感謝の一文有り  「思えば一九三五年、老生の最初の管絃楽、『日本狂詩曲』がパリでチェレプニン賞   を受け、翌年、ボストンで初演されましたが、当時日本では。このような民族色の   強い作品は、民族の劣弱感の裏返しで国辱的であるとされ暫く、定評化されました」  「軈て、一九四五年、戦爭が終ると、今度は外来の前衛や十二音主義の嵐となり、一   変して、時代に遅れたものと做れ、又、映画の音楽にも参画した故をもって純音楽   には遠い作家とて冷遇され来りました」   80年頃より少しずつ事情が変わりこんな機会があるのは皆様のおかげと一文有り  「グローバリズムのような單一な価値観ではなく、夫々の異文化が互に理解と敬意を   もって共存し得る時代の到来を希って止みません」   漢字は原文ママにしましたが、強の旧字は見つけられませんでした。もし表示できなければスミマセン

どうでしょう。今、アメリカや(誰の命令にせよ)東京政府が行っている政策と全く逆方向の思想だと思いませんか?

 

注1.日本には、戦前よりマスメディアを東京に集中させる政策があるため、他地域で     作曲家として食べていく事が非常に不利になっている。伊福部昭氏にすれば、た     だそれだけの理由で決めた住所であり、また氏は、無理なく仕事に通える範囲で     出来るだけ郊外に居を選んでいる

注2.1959年の『協奏風狂詩曲』の元は1951年の『ヴァイオリンと管弦楽のた     めの狂詩曲』。更にその元は1948年の『ヴァイオリンと管弦楽のための協奏     曲』で、札幌で書き始め、日光で大部分を書いた

注3.某米会社がクラシック曲にアニメを付けた「Fantasia」を偶然に見て、     すぐ作曲した為、似てしまったと本人は言っている。他に日本でとても人気のあ     った「ポパイ」のキャッチ曲等、当時までの米国アニメに似た部分がある。      某番組で演奏する曲にゴジラシリーズから一曲選べと言われ、80年代は日本     のアニメ商売もまだ小さく、特撮関連と時代劇以外の氏の曲は注目されていなか     ったので、ゴジラだけじゃないぞという気持ちで「映画から一曲選ぶのならアメ     ノウズメの踊り」という発言になったと思われる。

注4.伊福部昭氏が東京で冷遇&無視され続けた様に、その実力と実績を国際的に認め     られた人や企業が、単に「(東京が嫌っている日本の特定)地方在住&出身」だ     からという理由で「冷遇する・メディアで扱わない・プラス評価しない」という     のは、今日ネットを含むメディアのあらゆるジャンルで行われている事で、そう     いうことを続けていたら日本が滅んでいくと思うのだが・・・。

注5.伊福部昭氏は本当の芸術は単純明解なもの、芸術だと自己主張しないもの、合理     的なものだという考えで、単に大きければ良いというのではない。ゴテゴテ変な     設計で建築費用も補修費用も同じサイズの高層ビルの10倍(←確か公称で)必     要な都●やら、近くの山の上に建てれば同じ高さで100分の1の建築費&維持     費で用が済むヘンテコな東●マンセーツリーなんかは論外だろう(どっちも税金     から支払う!その分で消費税増税3%の数十年分くらい浮くよネ(^^;))

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このページは、1024×768画面に合わせて作りました。ちゃんと見えなかったらスミマセン