エッセイを1回落としてしまった。
今回も大幅な遅れを出してしまいました。
期待していた方には、本当に申し訳ないありませんでした。お詫び申し上げます。
私がエッセイを落としたり、遅れたりすることの理由はいつも単純だ。
ソフトの作成がうまくいっていないときだ。
今回のソフトの目玉はツリービューなのだが、何かを実装するたびに、それが本当に実装できるかテストプログラムを作らなければならず、一見実装できているように見えても、うまくいっていないことが多かった。
エッセイを1回落としてしまっていることは気がかりだったが、それよりも問題は今回だった。忙しくて、新しいものを書いている暇がない。
書きためたものは底をついてしまい、1回分しか残っていないそれはHD DVDを撤退した某T社の1万2千円くらいのシリコンプイヤーのレビューだったのだが、ハッキリいってレビューにならないくらいに質が悪く、結果的に悪態しかついていないという代物だったからである(そのエッセイが公表されることはないだろうから、ここでいってしまうが、さんざん文句をつけてアマゾンに返品してしまったくらいなのである)。
このメダパニ状態でその「悪態」をさらすというもの気が引ける。そんなわけで、今回はその「悪態」とは正反対の内容でいくことに決めた。
本題に入ろう。
昨年から現在まで、いろいろなシーンで「才能」というものに感動されられることが多く、そのたびに感動させられて私なりに「幸せな時間」を送れた。特に女性陣の活躍が目立った。
たとえば、
「グッジョブ」の松下奈緒さん
「レ・ミゼラブル 少女コゼット」の斉藤由貴さん
「笑顔」をリリースした松浦亜弥さん
「ハヤテのごとく」の釘宮理恵さん
「篤姫」の宮崎あおいさん
など...
そして、今月はNHKの新番組マイロードで久本雅美さんが出演されていた。
これらの方々に共通することは(自分の理解できないことに、何かしら共通項を見出そうとすること自体がすでに凡人の領域だが)、評価されている作品のほとんどでそれぞれの方がおそらく自分の地のままのキャラクタを演じて評価されているということではないだろうか。
たしかに、それぞれの方が演じられているキャラクタの後ろには、「ありのままに」というプロデューサーなりの演出の意図のかけらは感じられるのだが、それはあくまでも彼女たちの表現を補助するだけのもので、演出している側の要求よりもさらにより以上のものを彼女たちが自身の地で表現できていることが高い評価につながっているのだと思う。
「グッジョブ」の松下さんも、ああ彼女の本当のキャラクターはこうなんだなあと感じさせるものだったし、「少女コゼット」のオープニングとエンディングテーマを歌われている斉藤さんもここに来て才能を爆発させていると感じさせるものだった。
「笑顔」を初めて耳にしたとき即、絶対CDを買おうと思った。松浦さんもいい方向に成長をされているなあと思い知らされた。
「ハヤテのごとく」の釘宮さんも、この30分間が永遠に続けばいいのになあと思わせる(とてつもなく面白い回とあまり面白くない回があるのはご愛嬌だ)。
「篤姫」の宮崎さんに期待されている方も多いだろう。彼女は紛れもなく十年に一度現れるか現れないかの天才だ。
そして久本さん。そう、お察しの通り私は彼女の大ファンなのだ。何度目だろうか。これを書いている後ろのテレビで、1回目の彼女の放送のリプレイがかかっている。
「コレクター」の私にとって、彼女たちのような「才能あふれる演技人」が出演している番組にめぐり合えることはこの上ない「幸せの時間」なのである。
いろいろと迷った挙句、今回は「幸せの時間」でいくと決めたこの日(前々回の日曜日)は、いつにない小春日和のいい一日だった。
私だけではく日本中の方が、何気ない普通の生活が一番の幸せだなぁ、と感じられた一日だったのではないだろうか。
私はといえば、久しぶりにチョッと離れたスーパーに足を運ぶ余裕ができた。
行ってみると、ナスが1Kgで150円という投げ売りをやっていた。
トマトは大振りのものを6つで380円という値段だった。
この日外したものは唯一、タイヤ交換のみという感動的な一日だったのである。
今年に入って一番の天気だったせいだろう。16:00にオートバックスにタイヤ交換を持ち込むと、8時間待ちということになっていて、すでに本日の受付は終了したという。
ブツブツいいながら家に帰ってタイヤをタイヤラックに戻してふと目をやると、隣の家の裏庭で、トラ猫が前足を揃えてしゃがみ込んでいた。
猫と私は偶然に目が合った。猫は「なにかな?」といった感じで私を覗き込むと、プイっと顔をそむけて何事もなかったかのように、また一人でのリラックスタイムに戻っていった。
すでに小春日和の夕日がチョッと落ちかけている時間ではあったが、私の存在を完全に無視してたたずんでいるその猫の後姿には、なぜか確かに「幸せ」があふれているようにみえた。
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