シュレーディンガーの猫のまとめ  

      by  南堂久史




 このページでは、「シュレーディンガーの猫」の観測問題の概要を扱う。
 これまで「シュレーディンガーの猫」について論じた文書をいくつか公開してきた。だが、分量が多くなったので、再構成して、新たな形で公開することにした。(内容自体は以前とは大差ないが、構成法が変わった。)( 2005-12-08 )

     ※ 「核心」,「粒子と波」の追加。 新文書 (6) の公開。 ( 2006-03-02 )
     ※ すぐ下の囲み枠を追加。 ( 2007-01-20 )



 この文書はシュレーディンガーの猫の「観測問題」を扱う。
 通常の量子論(コペンハーゲン解釈)は、「観測が状態を決定する」と主張する。しかしこの文書は、「観測が判断を決定する」と主張する。
 観測者が箱のなかを観測したとき、猫の生死が決定されるのではない。猫の生死の判断が決定される。両者の違いは、「現実の猫」と「認識された猫」という違いだ。「現実の猫」の状態は観測によらずに決まる。「認識された猫」の状態は観測によって決まる。
 この問題は、論理学や認識論の問題である。物理学の問題ではない。「シュレーディンガーの猫」(の観測問題)が奇妙に思えるのは、そこに物理的なパラドックスがあるからではなく、物理学者がそこで論理を混同しているからだ。
 「観測が状態を決定する」ということは、マクロの世界では絶対にありえない。このことが本文書からわかる。
 「観測が状態を決定する」ということは、ミクロの世界でも絶対にありえない。ただし、ミクロの世界では見かけ上、「観測が状態を決定する」というふうに錯覚されることもある。それは、「赤と青の混在」が「赤と青の混合」というふうに錯覚されることだ。この件は、「シュレーディンガーの猫の核心」で述べた。


全体の構造


 「シュレーディンガーの猫」の問題には、実は、三つの異なる問題がある。
 という三つだ。順に示すと、次の通り。

マクロの問題


 マクロの問題とは、現実の猫の問題である。
 シュレーディンガーの猫を観測していると、次のような問題が生じる。
 「観測前の猫は、生きているか死んでいるか、判明しないが、半死半生なのか?」
 「観測したとたんに猫の生死が決定するとしたら、観測が猫の生死を決定することになる。これは不自然だ」
 これがマクロの問題だ。

ミクロとマクロの関係


 ミクロとマクロは、どう関係しているのか? 
 通常の解釈では、「コードで結ばれているから、どちらも同じ現象である」というふうに説明される。そのことは、暗黙裏に前提されているが、しかし、本当にそうなのか? 


ミクロの問題


 ミクロの問題とは、量子の問題の問題である。
 通常の物理学的な解釈では、「ミクロの世界では量子の重ね合わせの状態にある」というふうに説明される。では、「重ね合わせ」とは何か? 実は、それが、よくわかっていない。一応、次の二通りの解釈がある。
 この両者はいずれも不自然である。特に、コペンハーゲン解釈は、「相対論に矛盾する」という難点がある。また、エヴェレット解釈は、妄想だらけの狂人の発想とも言える。どちらにせよ、難点がある。

新たな説明


 このサイトでは、新たな説明を与える。以下のように。

マクロの問題


 マクロの問題では、現実の猫について、次の問題があった。
 「観測前の猫は、生きているか死んでいるか、判明しないが、半死半生なのか?」
 「観測したとたんに猫の生死が決定するとしたら、観測が猫の生死を決定することになる。これは不自然だ」

 この二つの問題について、新たに次のような解答を与える。
 「猫は半死半生ということはない。その誤解は、論理学的な錯覚から生じる。この問題は、ファジー論理を使うことによって、正しく説明される」
 「観測したとたんに猫の生死が決定するということはない。猫の生死は常に一方に決まっている。ただし、観測者が、そのどちらであるかを知らないだけだ。現実の猫の生死と、観測者がそれを知るということとは、別々のことである。……ここでは、現実の猫と、頭のなかで想定された猫とを、区別することで、錯覚を解決できる。換言すれば、この二つを区別しないと、錯覚が生じる」
 この件は、次項でも説明される。

ミクロとマクロの関係


 ミクロとマクロについては、「それぞれまったく別のことだ」と理解するべきだ。
 この両者は、コードで結びつけられているので、同じことだと思われやすい。しかし、コードで伝わるのは、ただの「ON−OFF」の電気信号だけだ。それは決して、二つの世界を結びつけているわけではなくて、二つの世界の間でたった一種類の情報を伝えているだけだ。それ以外の情報のすべては捨てられる。
 具体的に言えば、伝わるのは、「猫の生死を決める値」つまり「命題の真偽値」だけである。一方、命題の真偽値が何を意味するかには、三通りの解釈ができる。その三つのうち、有意義なのは、「人の判断」を決める値(確信度)だけである。
 この値は、「頭のなかで想定された猫」についての値だ。当然、現実の猫の値を、左右しない。
 要するに、シュレーディンガーの猫の観測装置からわかるのは、「現実の猫を、生きていると思うか、死んでいると思うか」ということだけだ。「どう思うか」が決まるだけであり、「観測が現実の猫を左右する」ということはないのだ。

ミクロの問題


 ミクロの問題では、「重ね合わせとは何か」がよくわかっていない、という問題があった。これについて、コペンハーゲン解釈とエヴェレット解釈との二つがあったが、どちらも難点がある。そこで、そのどちらをも、捨てる。かわりに、量子力学について、新たな解釈を示す。

 エヴェレット解釈は、あまりにも馬鹿馬鹿しいので、あっさりと捨ててしまってもいいだろう。問題は、コペンハーゲン解釈だ。この解釈は、「相対論に矛盾する」という難点もあるが、それはそれとして、別の難点もある。
 コペンハーゲン解釈では、「観測が量子の状態を決定する」と説明される。しかし、これは、あまりにも不自然だ。それは「意識が世界を決定する」という「観念論」の一種である。それはもはや、科学とは正反対の立場にあるからだ。

 かわりに、科学的に、次の解釈を示す。
 「量子の状態が変わると、観測不可能な状態から、観測可能な状態になる」
 ここで、「観測不可能な状態/観測可能な状態」とは、「波/粒子」のことである。すなわち、次の解釈が生じる。
 量子には、二つの状態がある。一つは、「波」の状態であり、これは、「観測不可能な状態」である。もう一つは、「粒子」の状態であり、これは、「観測可能な状態」である。量子の状態が、波から粒子に変わったとき、量子は観測不可能な状態から観測可能な状態に変わる。かくて、量子が観測されるようになる。
 具体的に言おう。二重スリット実験がある。この実験において、発射された電子が到達した写真乾板には、干渉縞が現れる。

 さて。通常は、何も観測しないので、干渉縞が現れる。しかし、二重スリットを観測して、粒子がどちらのスリットを通ったかを観測すると、「右のスリットを通った」「左のスリットを通った」というふうに、一個ずつ個別に観測される。すると、その場合には、干渉縞が現れない。

 この実験結果を見て、コペンハーゲン解釈は、次のように結論する。
 「観測しなければ干渉縞が現れるのに、観測すれば干渉縞が現れない。これは、観測が事実を決定する、ということだ」

 本当にそうか? この結論には、暗黙裏に、次の前提がある。
 「量子は必ず、一つの粒子として、右のスリットか左のスリットかどちらか一方を通るか、または双方のスリットを通る」……(*)

 しかしながら、この前提が間違っているのだ。
 これが間違っていることは、すぐにわかる。
  ・ 一つのスリットを通ったとすれば、干渉が起こらないはずなので、実験と矛盾。
  ・ 二つのスリットを通ったとすれば、一つの粒子が二つの場所に存在することになる。
   ゆえに、一つの粒子が二つの粒子となるので、「1=2」という数学的な矛盾。

 この間違いは、どこから来たか? 
 前提の核心からだ。その前提の核心とは、赤字の「一つの粒子として」という箇所だ。
 この部分は、正しくは、先の説明で示したように、次のようになる。
 「量子は、波であることもあり、粒子であることもある」
 つまり、量子が「波である」というときには、「粒子である」とは言えない。この場合、上の暗黙裏の前提(*)が成立しない。
 そして、暗黙裏の前提が成立しないのだから、コペンハーゲン解釈そのものがまったく成立しないのだ。


核心


 以上のことから、シュレーディンガーの猫や二重スリット実験の問題は、次のことが本質的だとわかる。


 前提が間違っていれば、結論は無意味なものとなる。「虚偽」を前提とした命題は、どんな命題も無意味になる。その前提とは、
 「量子は常に粒子である」
 という前提だ。

 観測された量子は、常に粒子である。
 しかし、観測されていない量子は、粒子ではなく波であることもある。現実には「波である」ような量子について、「粒子である」と仮定すれば、仮定そのものが間違っているのだから、以後のすべては無意味となる。かくて、無意味な結論が生じる。


 要するに、「猫は生きているか死んでいるか?」とか、「電子はどちらのスリットを通ったか」とか、そういう疑問そのものが、もともと無意味な疑問なのだ。
 「量子の状態」というのは、「粒子の状態」ではなくて、「の状態」になっている。だから、「どちらの粒子の状態か」というふうに問うこと自体が、もともと無意味なのである。
 「どちらの粒子の状態か」という質問に対しては、「その質問自体が間違っている」というのが、正解となる。

 一般に、パラドックスは、「Aならば矛盾、非Aでも矛盾」という形を取る。
 このような結論が得られた場合には、「Aまたは非Aならば無矛盾」という前提自体が間違っているのだ。つまり、おおもとの根源に間違いがあるのだ。
 例。「彼女の生んだ子供は、男だとすれば矛盾、非男(つまり女)だとしても矛盾」
  この場合には、「彼女は子供を生んだ」という前提自体が間違っている。
  前提が間違っているときに、そのあとで「男か女か」を問うても無意味。
  シュレーディンガーの猫というパラドックスもまた、同様である。前提が間違っている。

 【 解説 】
 同じことを、別の言い方で説明しよう。シュレーディンガーの猫のパラドックスの本質は、次の論理図式で説明できる。(ただし ⇒ は「ならば」と読む。)
    “ 標準解釈が正しい  ⇒  A かつ 非A (矛盾) ”

 この論理図式が正しいとすれば、標準解釈(粒子説)が正しいという前提から、「Aかつ非A」という矛盾が生じてしまう。次のような矛盾が。
  ・ 猫は生きていてかつ死んでいる。
  ・ 電子が、右のスリットを通り、かつ、左のスリットを通る。
    ただし、電子は一つなので、両方を同時に通ることはできない。

 一方、物理学者はまさしく、標準解釈(粒子説)が正しいという前提を取る。つまり、次のことを前提として信じる。
  “ 標準解釈は正しい。”

 こうして、論理図式と前提から、「Aかつ非A」という矛盾が生じる。これが「パラドックス」だ。

 そこで、この矛盾を避けるために、命題を文学的に解釈しようとする。
  ・ 「重ね合わせ」というふうに言い換えて、矛盾をゴマ化す。
  ・ 「複数の宇宙があるから矛盾ではない」とゴマ化す。
 どちらにしても、矛盾があることを文学的な解釈でゴマ化そうとする。なぜか? 彼らは、「標準解釈は正しい」という前提から脱することができないので、論理学の方を、文学的解釈で乗り切ろうとするのだ。論理よりも自分の立場の方が正しい、という非論理的な発想である。

 しかし、まともに論理があるのならば、次のことがわかる。
    “「 B ⇒ A かつ 非A 」 が真であれば、Bが真でない。”
 というわけで、「矛盾(パラドックス)が起こる」ということは、「困った困った」と悩むべし、ということを意味しない。むしろ、「標準解釈が正しい」という立場を捨てるべし、と教えるのだ。つまり、
  「量子は粒子である」
 という標準解釈を捨てて、
  「量子は単なる粒子以外の何ものかである」
 という新たな解釈を取ればいいのだ。つまり、論理を捨てるのではなくて、自分たちの思い込みの方を捨てるべきなのだ。……それが、シュレーディンガーの猫の教えることだ。

粒子と波


 では、正しくは? 「波と粒子」の関係については、基本的な原理が、別文書 (6) で説明してある。そちらを参照のこと。
 簡単に言えば、「粒子と波とは根源的に異なった状態である」と言える。だから、波の状態を「粒子の状態の重ね合わせ」というふうに理解したのでは、根源的に狂った認識をしていることになる。たとえば、量子が干渉縞を発生するのは、量子がであるから干渉縞を発生するのだ。これを「粒子の何らかの性質が干渉している」なんていうふうに認識するのは、とんでもない勘違いである。

 コペンハーゲン解釈は、「二つの粒子の状態重ね合わせだ」というふうに表現されるが、これは、「粒子の状態」という発想を取っているのだから、もちろん無意味である。
 コペンハーゲン解釈が「粒子の重ね合わせ」と呼ぶものは、ただの文学的な比喩にすぎない。「重ね合わせ」というものが何かを理解できていないまま、別の言葉で文学的に言い換えているだけにすぎない。コペンハーゲン解釈も、エヴェレット解釈も、何の科学的裏付けもない、ただの下手な文学にすぎないのだ。(コペンハーゲン解釈は「意識が世界を決定する」という超能力SFであり、エヴェレット解釈は「別宇宙の存在」という宇宙SFである。)
 肝心なのは、下手な文学ではない。彼らが「粒子の重ね合わせ」と呼ぶものが本質的に何を意味するかを、科学的に解明することだ。そして、それを解明すれば、
 「波動関数が示すのは、粒子の何らかの状態ではなくて、波の状態である」
 と判明する。そのことを科学的に説明するのが、別文書 (6) だ。この文書を理解することで、物理学は文学から科学へと転じる。


 【 解説 】
 「粒子と波」という違いは、詳しくは、別文書 (6) に記してあるが、ここではわかりやすく、初心者向けに比喩で説明しよう。
 コインをトスして、裏か表を決める。裏か表になる確率は、50%だ。そして、手を除けて、観測した瞬間に、裏か表かがはっきりと判明する。ここでは一見、
 「観測が現実を決める」
 というふうに見える。観測した瞬間に、確率が 50%から 0% または 100%に変化したように見える。だが、もちろん、そんなことはない。観測する以前から、コインの裏表はちゃんと決まっていた。
 では、観測する以前には、コインの裏表は、どちらなのか? 次の結論が得られる。
 「裏とすれば矛盾」
 「表とすれば矛盾」
 つまり、「裏でも表でも矛盾」となるのだ。このことは、一見、パラドックスのように見える。しかし、別に、パラドックスではない。なぜなら、
 「裏か表かどちらかに確定している」
 という前提が間違っているからだ。実は、
 「未確定である」
 というのが正解だ。そして、この未確定という性質は、どこから来るのかと言えば、「コインが回転していた」ということからくる。最終的に停止したかどうかはあまり関係なくて、途中で「コインが回転していた」ということが重要なのだ。この途中における「回転」というのは、「裏でも表でもない状態」である。
 で、どちらでもない状態に対して、「どちらかである」と勝手に決めつけたことが、間違いの根本原因となる。

 図式的に言えば、コインは、
    停止  →  回転  →  停止
 という三段階を取る。最初と最後では「停止」だったからといって、途中でも「停止」だったわけではない。最初と最後では「裏または表のどちらか」だったからといって、途中でも「裏または表のどちらか」だったわけではない。途中では「裏でも表でもない」という状況にある。
 これと同様なのが、量子だ。量子では、
    粒子  →   波   →  粒子
 という三段階を取る。最初と最後では「粒子」だったからといって、途中でも「粒子」だったわけではない。最初と最後では「Aまたは非Aのどちらか」だったからといって、途中でも「Aまたは非Aのどちらか」だったわけではない。途中では「Aでも非Aでもない」という状況にある。
 「Aでも非Aでもない」という状況は、「どちらでもない」(未定)という状況だ。それは、「Aと非Aの重ね合わせ」(両方の成立)ではない。

 比喩的に言おう。二人の女性である、A子とB子がいたとしよう。「二人のどちらとも結婚していない」(未婚)という状況は、「二人のどちらとも結婚している」(重婚)という状況とは、異なる。
 ここを勘違いしたのが、コペンハーゲン解釈だ。「A子と結婚しても、B子と結婚しても、どちらでもまずい。だから、両方と結婚すれば、問題ない」と結論した。しかし、「A子ともB子とも結婚しない」という場合もまた、あり得るのだ。そして、コペンハーゲン解釈が選んだのが「重婚」だという道だとしても、この世界の自然が選んだのは「未婚」の方だったのだ。
 未婚の相手を見て、「あいつも重婚に決まっている」と決めつけたところに、コペンハーゲン解釈の根源的な勘違いがある。
 「重婚」ならば、「Aかつ非A」という矛盾が生じるが、未婚ならば、「Aでも非Aでもない」のだから、矛盾は生じない。
 かくて、シュレーディンガーの猫のパラドックスは、見事に解明されたことになる。そのパラドックスが生じたのは、人々が誤った前提にもとづいて、「重婚説」を取ったからなのだ。

( ※ ここで、比喩から科学に戻ると、「コインの回転中」ないし「未定」という状況が、量子の「波」という状況に相当する。「波」というのは、「どの粒子にもなっていない未定の状態」のことだ。「粒子が波になる」というのは、「コインが停止状態から回転状態になる」ということだ。……こういうことが、別文書 (6) で説明されている。)

二重スリットと観測


 特に、二重スリットについて言えば、次のことが言える。
 「右または左のスリットを観測しようとしたときには、観測できた場合と、観測できなかった場合とがある。観測できなかった場合には、量子は波として存在していることになる。観測できた場合には、量子は粒子として存在していることになる。この両者は、別々のことだから、結果が異なるのは当然だ」
 わかりやすく言えば、こうだ。
 図で示すと、こうだ。


    電子銃  )))))))))))))))) slit )))))))))))))))) l 写真乾板



まず電子銃で電子の粒子 が発射される。
電子は、いったん波 ))) となって、真空中を伝わる。
スリットの地点で、電子の粒子 に転じる。
その後、ふたたび波 ))) となって、真空中を伝わる。
最後に、写真乾板に到達して、またも電子の粒子 となる。



 人がスリットを見ているか否かが状態を決定するのではない。量子が観測可能であるか否かという状態しだいで、人が観測するか否かが決まるのだ。
 正確に言おう。「観測する」という行動は、人間だけで決めることはできない。人間が決めることができるのは、「見る」という行為だけだ。
 「見る」という行為をしているときに、そこに粒子が出現すれば(観測可能であれば)、「観測する」という行動がなされる。
 「見る」という行為をしているときに、そこに粒子が出現しなければ(観測不可能であれば)、「観測する」という行動がなされない。

 わかりやすい比喩で、天文観測で言おう。観測者が望遠鏡を覗いている。彗星を発見しようとしている。このとき、観測者が観測するという行為が彗星の存在を決定するか? この問題については、次のように答えることができる。
 「見る」という行為をしているときに、そこに彗星が出現すれば(観測可能であれば)、「観測する」という行動がなされる。
 「見る」という行為をしているときに、そこに彗星が出現しなければ(観測不可能であれば)、「観測する」という行動がなされない。

 人間の行為が彗星の存在を決めるわけではない。同様に、人間の行為が粒子の存在を決めるわけではない。「量子が観測可能な状態であるか否か」(量子が粒子であるか波であるか)だけが、観測の有無を決めるのだ。
 二重スリットで言えば、スリットを観測して、 slit というふうに粒子を観測すれば、そこでは量子が観測可能な状態であったことになる。量子は観測可能になったから観測されるのであり、人が「見る」という行為をなしたから量子が観測されるのではない。人が見ようが見まいが、そこに「粒子」という形の存在があれば、そこでは「波から粒子への転換」があったことになる。
 そして、それを示すのが、「カシミール効果」という実験だ。

検証


 コペンハーゲン解釈と、新しい解釈との、二つの説を示した。この二つのうち、どちらの説が正しいかは、次のことから判明する。
 「写真乾板のかわりに、暗黒の吸収物質の板を置く」
 つまり、電子を敏感に検出する写真乾板のかわりに、電子があってもなくても差がわからない板(炭の板のようなもの)を用いる。この二つでは、「観測結果が判明する/「観測結果が判明しない」という違いが生じる。つまり、「見る」という行為は同じでも、「判明する」という結果が異なる。

 このように暗黒の吸収物質を使った場合、二つの説で、次のように解釈の違いが出る。
 違いは、こうだ。
  ・ 前者では、観測がなされないので、波動関数は収束しない。
  ・ 後者では、観測がなされないとしても、波動関数は収束する。

 どちらの解釈が正しいかは、実験の一年後に、吸収物質の状態を検証すればよい。一年後に検証すれば、写真乾板の場合とまったく同じ結果が得られる。
 これは、次のように、解釈の違いが出る。
  ・ 前者では、一年後の時点で、波動関数が急速に収束した。
  ・ 後者では、実験の時点で、波動関数が急速に収束した。
 どちらが信頼できるかは、自明だろう。

【 参考 】
 この新しい解釈は、名付けるなら、「ファインマン・南堂 解釈」と呼んでもいい。おおざっぱに言えば、原理をモデル的に示したのが南堂であり、その原理に基づく数式化を示したのがファインマンである。ただし、順序は、ファインマンが先だ。
 ファインマン自身は、経路積分の発想と数式を示しただけであり、直接的には上記のような形(モデル的な形)では述べていない。だが、本質的には、(本文書の)南堂の解釈と、ファインマンの解釈とは、その根源が共通する。両者は、同じことを意味しているというより、両者が合わさって一つの解釈を構成すると言えるだろう。
 なお、根本的な基礎は、両者とも同じであるが、表面的な表現では、いくらか違いがある。ただ、その違いは、数学的には、まったく等価(定理で示される等価)となるので、事実上の違いを意味しない。この件は、別文書 (6) を見ればわかる。
 ともあれ、「ファインマン・南堂解釈」は、「コペンハーゲン解釈」や「エヴェレット解釈」とは、激しく対立する。このことに注意すること。

結論


 ここまでの話から、「シュレーディンガーの猫」と「二重スリット」という二つの問題について、次のように結論することができる。
  1. 「シュレーディンガーの猫」の問題が生じたのは、ミクロの世界とマクロの世界を混同したことによる。ミクロの世界では「重ね合わせ」は考えられるが、マクロの世界では「重ね合わせ」は考えられない。なのに、この両者を混同して、本来は別のものを無理に結びつけたから、「シュレーディンガーの猫」のパラドックスが生じた。
  2. 「重ね合わせ」は、ミクロの世界では成立するが、マクロの世界では成立しない。なぜなら、ミクロの世界では粒子はに転じるが、マクロの世界では粒子は常に粒子のままだからだ。
  3. ミクロの世界では、「重ね合わせ」という現象はある。それは、「粒子の状態」の現象ではなくて、「波の状態」の現象である。
  4. つまり、ミクロの世界の「重ね合わせ」とは、「一つの粒子に二つの状態が共存する」ことを意味するのではなく、「粒子が波に転じ、その波が現実の波として重なり合っていること」を意味する。
 要するに、「量子の重ね合わせ」を、「粒子の状態の重ね合わせ」と解釈することから、奇妙な問題が生じるのだ。実際には、重ね合わせが起こるときには、粒子は消えて、波だけがあるのだ。そして、そのとき、「まさしく現実に(空間の振動としての)波がある」というふうになる。そのことゆえに、波の重ね合わせが生じる。
 「重ね合わせ」というものは、波についてだけ成立するのであって、粒子については成立しない。なのに、そこを勘違いするから、パラドックスが生じるわけだ。

 図式的に示せば、こうだ。

 《 コペンハーゲン解釈 》
 ミクロで: 「一つの粒子の状態が X と Y の重ね合わせである」
 マクロで: 「一匹の猫の状態が生と死の重ね合わせである」

 《 新しい解釈 》
 ミクロで: 「粒子がになったあとで、空間的に広がるところの 波 Ψ(X) と Ψ(Y) がとして重なりあう」
 マクロで: 「(一匹の猫の生死は生か死かどちらか一方だが、)たくさんの猫がいれば生死は確率的に分布する」

 この二つの解釈がある。両者の根源的な差は、量子を「粒子」と見るか「波」と見るかだ。
 量子は本来、粒子の形態との形態とで、形態を相互に変換するものである。しかるに、そのことを無視して、「量子は常に粒子である」と考えると、矛盾が生じる。その矛盾が、すなわち、「シュレーディンガーの猫」の問題と、「二重スリット」の問題だ。
 ともあれ、問題の根源は、量子を「粒子」と見るか「波」と見るかということにあるのだ。これまでは「粒子」と考えるだけだったから、事実と食い違い、いろいろとパラドックスが生じたわけだ。






  このページについて

    氏 名   南堂久史
    メール   nando@js2.so-net.ne.jp
    URL    http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/physics/catwjx.htm  (本ページ)
          http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/physics/catwja.htm (猫の表紙)


[ THE END ]