シュレーディンガーの猫のまとめ by 南堂久史 |
このページでは、「シュレーディンガーの猫」の観測問題の概要を扱う。
これまで「シュレーディンガーの猫」について論じた文書をいくつか公開してきた。だが、分量が多くなったので、再構成して、新たな形で公開することにした。(内容自体は以前とは大差ないが、構成法が変わった。)( 2005-12-08 )
※ 「核心」,「粒子と波」の追加。 新文書 (6) の公開。 ( 2006-03-02 )
※ すぐ下の囲み枠を追加。 ( 2007-01-20 )
この文書はシュレーディンガーの猫の「観測問題」を扱う。
通常の量子論(コペンハーゲン解釈)は、「観測が状態を決定する」と主張する。しかしこの文書は、「観測が判断を決定する」と主張する。
観測者が箱のなかを観測したとき、猫の生死が決定されるのではない。猫の生死の判断が決定される。両者の違いは、「現実の猫」と「認識された猫」という違いだ。「現実の猫」の状態は観測によらずに決まる。「認識された猫」の状態は観測によって決まる。
この問題は、論理学や認識論の問題である。物理学の問題ではない。「シュレーディンガーの猫」(の観測問題)が奇妙に思えるのは、そこに物理的なパラドックスがあるからではなく、物理学者がそこで論理を混同しているからだ。
「観測が状態を決定する」ということは、マクロの世界では絶対にありえない。このことが本文書からわかる。
「観測が状態を決定する」ということは、ミクロの世界でも絶対にありえない。ただし、ミクロの世界では見かけ上、「観測が状態を決定する」というふうに錯覚されることもある。それは、「赤と青の混在」が「赤と青の混合」というふうに錯覚されることだ。この件は、「シュレーディンガーの猫の核心」で述べた。
量子には、二つの状態がある。一つは、「波」の状態であり、これは、「観測不可能な状態」である。もう一つは、「粒子」の状態であり、これは、「観測可能な状態」である。量子の状態が、波から粒子に変わったとき、量子は観測不可能な状態から観測可能な状態に変わる。かくて、量子が観測されるようになる。具体的に言おう。二重スリット実験がある。この実験において、発射された電子が到達した写真乾板には、干渉縞が現れる。
|
【 解説 】
同じことを、別の言い方で説明しよう。シュレーディンガーの猫のパラドックスの本質は、次の論理図式で説明できる。(ただし ⇒ は「ならば」と読む。)
“ 標準解釈が正しい ⇒ A かつ 非A (矛盾) ”
この論理図式が正しいとすれば、標準解釈(粒子説)が正しいという前提から、「Aかつ非A」という矛盾が生じてしまう。次のような矛盾が。
・ 猫は生きていてかつ死んでいる。
・ 電子が、右のスリットを通り、かつ、左のスリットを通る。
ただし、電子は一つなので、両方を同時に通ることはできない。
一方、物理学者はまさしく、標準解釈(粒子説)が正しいという前提を取る。つまり、次のことを前提として信じる。
“ 標準解釈は正しい。”
こうして、論理図式と前提から、「Aかつ非A」という矛盾が生じる。これが「パラドックス」だ。
そこで、この矛盾を避けるために、命題を文学的に解釈しようとする。
・ 「重ね合わせ」というふうに言い換えて、矛盾をゴマ化す。
・ 「複数の宇宙があるから矛盾ではない」とゴマ化す。
どちらにしても、矛盾があることを文学的な解釈でゴマ化そうとする。なぜか? 彼らは、「標準解釈は正しい」という前提から脱することができないので、論理学の方を、文学的解釈で乗り切ろうとするのだ。論理よりも自分の立場の方が正しい、という非論理的な発想である。
しかし、まともに論理があるのならば、次のことがわかる。
“「 B ⇒ A かつ 非A 」 が真であれば、Bが真でない。”
というわけで、「矛盾(パラドックス)が起こる」ということは、「困った困った」と悩むべし、ということを意味しない。むしろ、「標準解釈が正しい」という立場を捨てるべし、と教えるのだ。つまり、
「量子は粒子である」
という標準解釈を捨てて、
「量子は単なる粒子以外の何ものかである」
という新たな解釈を取ればいいのだ。つまり、論理を捨てるのではなくて、自分たちの思い込みの方を捨てるべきなのだ。……それが、シュレーディンガーの猫の教えることだ。
【 解説 】
「粒子と波」という違いは、詳しくは、別文書 (6) に記してあるが、ここではわかりやすく、初心者向けに比喩で説明しよう。
コインをトスして、裏か表を決める。裏か表になる確率は、50%だ。そして、手を除けて、観測した瞬間に、裏か表かがはっきりと判明する。ここでは一見、
「観測が現実を決める」
というふうに見える。観測した瞬間に、確率が 50%から 0% または 100%に変化したように見える。だが、もちろん、そんなことはない。観測する以前から、コインの裏表はちゃんと決まっていた。
では、観測する以前には、コインの裏表は、どちらなのか? 次の結論が得られる。
「裏とすれば矛盾」
「表とすれば矛盾」
つまり、「裏でも表でも矛盾」となるのだ。このことは、一見、パラドックスのように見える。しかし、別に、パラドックスではない。なぜなら、
「裏か表かどちらかに確定している」
という前提が間違っているからだ。実は、
「未確定である」
というのが正解だ。そして、この未確定という性質は、どこから来るのかと言えば、「コインが回転していた」ということからくる。最終的に停止したかどうかはあまり関係なくて、途中で「コインが回転していた」ということが重要なのだ。この途中における「回転」というのは、「裏でも表でもない状態」である。
で、どちらでもない状態に対して、「どちらかである」と勝手に決めつけたことが、間違いの根本原因となる。
図式的に言えば、コインは、
停止 → 回転 → 停止
という三段階を取る。最初と最後では「停止」だったからといって、途中でも「停止」だったわけではない。最初と最後では「裏または表のどちらか」だったからといって、途中でも「裏または表のどちらか」だったわけではない。途中では「裏でも表でもない」という状況にある。
これと同様なのが、量子だ。量子では、
粒子 → 波 → 粒子
という三段階を取る。最初と最後では「粒子」だったからといって、途中でも「粒子」だったわけではない。最初と最後では「Aまたは非Aのどちらか」だったからといって、途中でも「Aまたは非Aのどちらか」だったわけではない。途中では「Aでも非Aでもない」という状況にある。
「Aでも非Aでもない」という状況は、「どちらでもない」(未定)という状況だ。それは、「Aと非Aの重ね合わせ」(両方の成立)ではない。
比喩的に言おう。二人の女性である、A子とB子がいたとしよう。「二人のどちらとも結婚していない」(未婚)という状況は、「二人のどちらとも結婚している」(重婚)という状況とは、異なる。
ここを勘違いしたのが、コペンハーゲン解釈だ。「A子と結婚しても、B子と結婚しても、どちらでもまずい。だから、両方と結婚すれば、問題ない」と結論した。しかし、「A子ともB子とも結婚しない」という場合もまた、あり得るのだ。そして、コペンハーゲン解釈が選んだのが「重婚」だという道だとしても、この世界の自然が選んだのは「未婚」の方だったのだ。
未婚の相手を見て、「あいつも重婚に決まっている」と決めつけたところに、コペンハーゲン解釈の根源的な勘違いがある。
「重婚」ならば、「Aかつ非A」という矛盾が生じるが、未婚ならば、「Aでも非Aでもない」のだから、矛盾は生じない。
かくて、シュレーディンガーの猫のパラドックスは、見事に解明されたことになる。そのパラドックスが生じたのは、人々が誤った前提にもとづいて、「重婚説」を取ったからなのだ。
( ※ ここで、比喩から科学に戻ると、「コインの回転中」ないし「未定」という状況が、量子の「波」という状況に相当する。「波」というのは、「どの粒子にもなっていない未定の状態」のことだ。「粒子が波になる」というのは、「コインが停止状態から回転状態になる」ということだ。……こういうことが、別文書 (6) で説明されている。)
電子銃 ⊃ )))))))))))))))) )))))))))))))))) l 写真乾板
まず電子銃で電子の粒子 が発射される。
電子は、いったん波 ))) となって、真空中を伝わる。
スリットの地点で、電子の粒子 に転じる。
その後、ふたたび波 ))) となって、真空中を伝わる。
最後に、写真乾板に到達して、またも電子の粒子 となる。
人がスリットを見ているか否かが状態を決定するのではない。量子が観測可能であるか否かという状態しだいで、人が観測するか否かが決まるのだ。
正確に言おう。「観測する」という行動は、人間だけで決めることはできない。人間が決めることができるのは、「見る」という行為だけだ。
「見る」という行為をしているときに、そこに粒子が出現すれば(観測可能であれば)、「観測する」という行動がなされる。
「見る」という行為をしているときに、そこに粒子が出現しなければ(観測不可能であれば)、「観測する」という行動がなされない。
わかりやすい比喩で、天文観測で言おう。観測者が望遠鏡を覗いている。彗星を発見しようとしている。このとき、観測者が観測するという行為が彗星の存在を決定するか? この問題については、次のように答えることができる。
「見る」という行為をしているときに、そこに彗星が出現すれば(観測可能であれば)、「観測する」という行動がなされる。
「見る」という行為をしているときに、そこに彗星が出現しなければ(観測不可能であれば)、「観測する」という行動がなされない。
人間の行為が彗星の存在を決めるわけではない。同様に、人間の行為が粒子の存在を決めるわけではない。「量子が観測可能な状態であるか否か」(量子が粒子であるか波であるか)だけが、観測の有無を決めるのだ。
二重スリットで言えば、スリットを観測して、 というふうに粒子を観測すれば、そこでは量子が観測可能な状態であったことになる。量子は観測可能になったから観測されるのであり、人が「見る」という行為をなしたから量子が観測されるのではない。人が見ようが見まいが、そこに「粒子」という形の存在があれば、そこでは「波から粒子への転換」があったことになる。
そして、それを示すのが、「カシミール効果」という実験だ。
検証
コペンハーゲン解釈と、新しい解釈との、二つの説を示した。この二つのうち、どちらの説が正しいかは、次のことから判明する。
「写真乾板のかわりに、暗黒の吸収物質の板を置く」
つまり、電子を敏感に検出する写真乾板のかわりに、電子があってもなくても差がわからない板(炭の板のようなもの)を用いる。この二つでは、「観測結果が判明する/「観測結果が判明しない」という違いが生じる。つまり、「見る」という行為は同じでも、「判明する」という結果が異なる。
このように暗黒の吸収物質を使った場合、二つの説で、次のように解釈の違いが出る。
違いは、こうだ。
- コペンハーゲン解釈 …… 「電子が暗黒の吸収物質にぶつかったとき、電子は観測されない。だから、波動関数は収束しない」
- 新しい解釈(本論) …… 「電子が暗黒の吸収物質にぶつかったとき、電子は光速に近い速度から静止状態になるので、位置が決まり、狭いピークのある波(つまり粒子)となる。だから、波動関数は収束する」
・ 前者では、観測がなされないので、波動関数は収束しない。
・ 後者では、観測がなされないとしても、波動関数は収束する。
どちらの解釈が正しいかは、実験の一年後に、吸収物質の状態を検証すればよい。一年後に検証すれば、写真乾板の場合とまったく同じ結果が得られる。
これは、次のように、解釈の違いが出る。
・ 前者では、一年後の時点で、波動関数が急速に収束した。
・ 後者では、実験の時点で、波動関数が急速に収束した。
どちらが信頼できるかは、自明だろう。
【 参考 】
この新しい解釈は、名付けるなら、「ファインマン・南堂 解釈」と呼んでもいい。おおざっぱに言えば、原理をモデル的に示したのが南堂であり、その原理に基づく数式化を示したのがファインマンである。ただし、順序は、ファインマンが先だ。
ファインマン自身は、経路積分の発想と数式を示しただけであり、直接的には上記のような形(モデル的な形)では述べていない。だが、本質的には、(本文書の)南堂の解釈と、ファインマンの解釈とは、その根源が共通する。両者は、同じことを意味しているというより、両者が合わさって一つの解釈を構成すると言えるだろう。
なお、根本的な基礎は、両者とも同じであるが、表面的な表現では、いくらか違いがある。ただ、その違いは、数学的には、まったく等価(定理で示される等価)となるので、事実上の違いを意味しない。この件は、別文書 (6) を見ればわかる。
ともあれ、「ファインマン・南堂解釈」は、「コペンハーゲン解釈」や「エヴェレット解釈」とは、激しく対立する。このことに注意すること。
結論
ここまでの話から、「シュレーディンガーの猫」と「二重スリット」という二つの問題について、次のように結論することができる。
要するに、「量子の重ね合わせ」を、「粒子の状態の重ね合わせ」と解釈することから、奇妙な問題が生じるのだ。実際には、重ね合わせが起こるときには、粒子は消えて、波だけがあるのだ。そして、そのとき、「まさしく現実に(空間の振動としての)波がある」というふうになる。そのことゆえに、波の重ね合わせが生じる。
- 「シュレーディンガーの猫」の問題が生じたのは、ミクロの世界とマクロの世界を混同したことによる。ミクロの世界では「重ね合わせ」は考えられるが、マクロの世界では「重ね合わせ」は考えられない。なのに、この両者を混同して、本来は別のものを無理に結びつけたから、「シュレーディンガーの猫」のパラドックスが生じた。
- 「重ね合わせ」は、ミクロの世界では成立するが、マクロの世界では成立しない。なぜなら、ミクロの世界では粒子は波に転じるが、マクロの世界では粒子は常に粒子のままだからだ。
- ミクロの世界では、「重ね合わせ」という現象はある。それは、「粒子の状態」の現象ではなくて、「波の状態」の現象である。
- つまり、ミクロの世界の「重ね合わせ」とは、「一つの粒子に二つの状態が共存する」ことを意味するのではなく、「粒子が波に転じ、その波が現実の波として重なり合っていること」を意味する。
「重ね合わせ」というものは、波についてだけ成立するのであって、粒子については成立しない。なのに、そこを勘違いするから、パラドックスが生じるわけだ。
図式的に示せば、こうだ。
《 コペンハーゲン解釈 》
ミクロで: 「一つの粒子の状態が X と Y の重ね合わせである」
マクロで: 「一匹の猫の状態が生と死の重ね合わせである」
《 新しい解釈 》
ミクロで: 「粒子が波になったあとで、空間的に広がるところの 波 Ψ(X) と Ψ(Y) が波として重なりあう」
マクロで: 「(一匹の猫の生死は生か死かどちらか一方だが、)たくさんの猫がいれば生死は確率的に分布する」
この二つの解釈がある。両者の根源的な差は、量子を「粒子」と見るか「波」と見るかだ。
量子は本来、粒子の形態と波の形態とで、形態を相互に変換するものである。しかるに、そのことを無視して、「量子は常に粒子である」と考えると、矛盾が生じる。その矛盾が、すなわち、「シュレーディンガーの猫」の問題と、「二重スリット」の問題だ。
ともあれ、問題の根源は、量子を「粒子」と見るか「波」と見るかということにあるのだ。これまでは「粒子」と考えるだけだったから、事実と食い違い、いろいろとパラドックスが生じたわけだ。
このページについて
氏 名 南堂久史
メール nando@js2.so-net.ne.jp
URL http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/physics/catwjx.htm (本ページ)
http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/physics/catwja.htm (猫の表紙)
[ THE END ]