9月

9月3日(水)

合宿明け更新

久しく更新です。あまり更新する気も無くなってきたような気がします。最近生きてる感じがしないから?やる気がしないのかも。合宿はとてもためになったのに、日常に戻ればこんなもの。合宿中の日記はまだ未完。一応メモはしてたんだけど…

新潟合宿

丁度、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の万景峰号が新潟に来ていた時ですね。山の天気はやはり変わりやすいと言うか…にわか雨が何度も。ですがまぁ寒くもなく暑くもなく、過ごしやすい気候でした。

学外合宿のみの先生の稽古で、自分の進むべき合気道の方向が見えたように思います。それまでは方向を失ってしまってて、なんとも目標のない稽古になってしまっていました。今回それが見えた事は大きな収穫ですね。

力では絶対に無理なんです。そりゃぁ筋力や体重があれば、投げたり極めたり崩したりするのはたやすいかも知れない。でもそれは自分には到底出来ない芸当。ならどうするか?それは力を入れようとしない事。限りなくやわらかくしなやかに動く。その為には相手とぶつかってはいけない。力は入れずに気を通して、と先生や先輩は言うのでしょう。それが合気という事なのでしょう。稽古中に私の頭に浮かんだ言葉を書けば、それは優気なのです。優しい気。そう思って稽古したら技が上手くなったように思えた。

つらい事

…あとは、ここ二ヶ月くらい悩んでいた事なのですが、まぁ部の雰囲気というか、コンパの出し物というか…私の持論として、つらい事でもその前に逃げるのではなくて、やめるならつらい事をやり遂げてからやめてしまえ、というのがありまして…まぁ結局やめなかったけど。ですがこれに対して今回疑問を持ちました。

つらい事を逃げずにやった所で、一体何が残るというの?何を得るというの?…確かに受験勉強などや、大会や講演会に向けての練習などは、つらい事を 成し遂げた後に、入学資格や賞など、形に残る対価が得られますね。ですがそれらが残らないつらい事ならどうでしょうか?…つらい事が自分にとって一体何の 役に立つのかと、疑問に思ったのです。

今回は、その問には完全に答えられていません。去年の六月にも書きましたが、つらい事から逃げていては何も成し遂げられません。生きてもいけません。もちろんそうなのだけれど、ただ、形には残らなくても、私には得るものがありました。仲間…なのだろうね。終ってから、皆でやったぞ、っていう意識があった。もし逃げていたら、これを得る事が出来ないのみならず、失っていた事になるのかなぁ…

何も得られないつらい事って、一体何なのだろう。どんな事だろう。私はどんな事にでも、得るものがあるような気がしてる。


9月18日(木)

更新はかなり久しぶりになってしまいましたね。何となく書く気なくなってきたのかい?別に毎日何も無かったわけではありません。色々な事がありました。でも最近そのあった事を忘れているんですね。事実は大体覚えてますが、感情が伴っていない。…だから日記が…。

街中散策

これは今月の頭くらいの日記です。

勉強せずに、中間テスト。88点で不良…あーあ、やる気も無くす。もやもやとした嫌悪感。またお金が掛かる…。嫌だった。分かった。自分は免許を取ろうとしていないのだ。ただ何となく、取りあえず、皆が持っているから、なのだ。そんなやつが何やってもムダ。取りたくないならやめればいい。今は…お金が勿体無いから。目標が無い。

昼に、周辺の散策へ。知らぬ道、田舎道。千と千尋の様に不思議の世界に入ってしまえばいいのに。初めて訪れる場所なのに、どんどん進む。方向感は良いから。林の傍は涼しい。クーラー要らず。良い空気。まだこんな場所があるのだな。昔ながらの風景が。色々なものを見る。知る。感じる。…そのうちもやもや感も消えた。疲労はある。余計にかかる。でも散策してみて、いい気分転換になった。

お寺巡りもしてみた。不思議な場所…社の上に猫がいた。挨拶して戻る。主だったのかな…。

ちょっとした…残った自然の中、風景の中に入り込んでみたのだ。…でもやはり、人のにおいがする。色々な場所に行って見たい。自然の中、人の手の入らぬ風景の中に身をおきたい。

まぁこんな感じ。意外と地元って、知らない場所が多くないですか?ちなみに今思えば、なかなか危なかったですね。よく戻って来れたものです。かつて高校帰りに自転車(チャリ通学だった)で曇りの日に散策に出かけたら、方向が分からなくなって焦った覚えがあります。方向感が良いのは晴れている日だけです。

その時どんな風に感じていたかなんて、一眠りしてしまえばもう解らないんですね。だから日記読むとハッとする。


9月29日(月)

お久しぶりですね。流離い人です。もう夏休みも終りです。来月からまた大学が始まります。去年より、よっぽどやる気はあると思われます。勉学の為に勉強しよう、という気ではないけど。

こんな事を書くという事すら、もはや陳腐な事の様に感じられます。それほどまでにこの本の影響は計り知れないものがありました。日記をまた上げます。

…先ず最初に感じた事は、現実世界との対応が数多く見られるという事。特に、誰かとの関係が。

…内容は、なるほど難しく、理解出来たかどうかすらも解らない。しかし、理解出来てしまった事も。私は、キルケゴールは確かにヤバい人間であると、俗な観点から言う。しかし、その俗世ではありえぬ行為、考えなどを私が美しいと感じたり、まして私がやりかねない事から、また私もヤバい人間なのだと思う。

ああキルケゴール、あなたのお陰で私はもう普通に生きる道を閉ざされた。普通に生活する事も、恋愛する事も、思考する事も、行動する事も出来な くなった。もはや俗に生きる事が出来なくなってしまったのだ。一生を、この先の見えない、つかもうにもつかめない、永遠なる苦悩を与える思慮と共に生きね ばならなくなった。ありがとうキルケゴール。私はこの本を読んで良かった。私はこの本を読んで後悔した。ありがとう、私は幸せなのだ。私は内なる自分を手に入れる。外なる自分も手に入れる。

このサイトを御覧の方がこの本を読んだ事があるかは分かりませんが、自分にとっては非常に価値のある本だったのですね。ヤバさ、とありますが、いわゆる普通なヤバさ、ではありません。

それまでは、私にも普通に生きたいと思う気持ちが大分あって、その葛藤の中で悩んできたのだろうけど、どうやらこれからはもう俗には生きないようですね。それは不幸な事なのでしょうか。不幸だけど、その不幸が、私にとって幸運なのでしょうね。この日記を書いた私がどういうつもりで書いたのかは知りませんが。

私は内なる自分を手に入れる。ボクは、この日記を書いた私が、<私>と感じるものの詳細をつかむという事なのではないかと思います。それがつまり私の哲学の最初にして最終の目的なのですから。そして、外なる自分も手に入れる。これは、誰かの事でしょう。ですが今後の展開によっては、ボクの事なのかもしれません。

キルケゴール著作、あれか、これか。この夏私は左手著作である第一部上巻を読み切る事が出来ました。今年の夏、最も私にとって重要な事となりました。そして、ボクは分かりました。この無題なぺえじが何なのか。

このサイト、この徒然日記とは、ボクが私の為に書いているものだったのです。以前に、私は自分の為に日記を書いている、と書きましたが、全く持って その通りです。同じ事を言っているのではないかと思われる方がいらっしゃると思いますが、違います。私が書いた日記、それをもう一度吟味するために、私の日記ボクが公開しているのです。

ウェブサイトは本来、読んでもらう対象を想定しておかねばなりません。ついこないだまで、ボクは、それが分かりませんでした。この、無題なぺえじのコンテンツ自体、おかしなものだと考えていました。でも今は違います。このサイトの、読まれるべき対象は、他でもない、だったのです。

ボクも、私も、自分です。ただ重ならぬ部分があるというだけです。だからこそ、ボクが書いたウェブ日記は、私にとって重要な要素を占めると思います。そして、私が、日記を読むのと、ボクが、日記を読むのとでは違いが現れてくるのです。この違い、考察こそ、私が求めているものなのだと思います。だから、ボク、流離い人がいるんだ!ボクが何の為に いるのかが分かった!ボクは自分の為に存在するのであって、誰かのために生まれたのではないんだ!ボクは、内なる自分、自分がこの世界の中心と感じられる自分の中にいながら、私の外なる<私>として存在してるんだ!私が欲しかったのは、もう一人の私だったんだ。