NOMO

―「ボクはノモだ、パパはホセ・カンセコだ」―

以下は2003年5月までの書き込みです。ありがとうございます。


369 2003年05月27日 (火) 22時28分25秒
野茂があわや3度目のノーヒットノーラン

「彼のスプリットフィンガーはスローで、頭の上から落ちてきた。直球がまるで106マイル(約170キロ)に見えたよ」(ブルワーズ・セクソン)
[サンケイスポーツ、2003年5月26日(月)11時13分]

369 2003年05月20日 (火) 21時49分32秒
「美しいリレー」の核 

 7回を投げ切り、この日も先発投手の責任を果たした。先発投手が7回まで投げ、8回を中継ぎ、9回を抑えで締める−−。これをトレーシー監督は「もっとも美しいリレー」と表現する。その理想型も野茂という核がいるから完成する。今季10試合に先発して7回に達しなかった試合はわずか1試合だ。投球回数は71回で両リーグで最多となった。
 チームは4連勝。7年ぶりのプレーオフ進出へと、視線は常にずっと先に向いている。(ロサンゼルス共同)(了)
[共同通信社 2003年5月19日 10時45分]

チュウ 2003年05月11日 (日) 11時58分11秒
ノモT ほしい。

369 2003年05月11日 (日) 11時54分09秒
●わずか2ヶ月の間に、アジア系の男性スポーツ選手に長くつきまとっていた「お行儀のいい優男で、おつむでは勝てても力では勝ち目なし」というイメージをきれいさっぱりはぎとってくれた。
日系アメリカ人にとって、野茂の活躍は「ブルース・リーのカンフー映画以来の最高の事件」である。(マイケル・シャピロ記者、ニューヨークタイムズ、1995年7月17日)

●「自分は自分、人は人」という精神をアピールしはじめた野球選手の世代に、野茂も名を連ねている。(マイケル・シャピロ記者、ニューヨークタイムズ、1995年7月17日)

●「日本人選手のうち米国でやってみようと思うのはひと握りしかいないと思うね。私が今まで会ってきたプレーヤーたちの誰にも劣らぬくらいノモには気骨がある。肉体が強靭なのはもちろん、彼の内面もまた信じられないほどたくましい。」
(テルマン弁護士、ロサンゼルス・タイムズ、1995年7月31日)

369 2003年05月05日 (月) 21時44分35秒
●野茂にミステリアスな魅力がある。両腕を伸ばし、頭上で止めてから、180度身体を回転させて打者に背中を向けるそのアクロバット的な投球フォームは、あのルイス・ティアントさえもかなわない。
 それに何といっても、野茂はパワフルである。ベースボールの魅力は、スピードとパワーにある。野茂は三振のとれる投手にとって不可欠なパワーを備えている。
 野茂の太い足は、負担のかかる独特の投球フォームを支えるのにちょうどいい。だが、最も目立つのは手である。彼の両手はずばぬけて大きく、内にみなぎる力を感じさせる。
 マウンドの上の野茂から、偉大なピッチャーに共通して見られる、打てるものなら打ってみろという気迫が感じられた。 
(ジェリー・フリイリー記者、ダグラス・モーニングニュース、1995年7月10日)

●「彼はプレッシャーにつぶされるようなピッチャーじゃない。どんなプレッシャーにもね。」(デーブ・ウォーレス投手コーチ)
[ダグラス・モーニングニュース、1995年7月10日]

●野茂は異国の地で成功を収めた日本人になっただけでなく、アメリカが日本に対して持っているイメージに「人間味」という新たな視点を与えた。さらに、暮らしの安定は保証されているが冒険する機会のない仕事に従事している多くの日本人にとって、野茂はロマンをかきたててくれるシンボルともなった。将来を保証された生活を捨てて夢を追い求める若者の姿が、日本人の共感を呼んだのである。
 朝日新聞は、”英雄、野茂”と題した社説のなかで、米国での同投手の成功を「うれしいカルチャーショック」と形容し、企業体質と精神論が個々の選手の能力を押さえつけている日本の「管理野球」への挑戦状であるとしている。(サム・ジェイソン記者、ロサンゼルス・タイムズ、1995年7月12日)

●ベースボールには本物のヒーローが必要だ。すぐれたテクニックを持っていたり、才能に恵まれていたり、プレーがうまいだけでは足りない。喜びと魔法のような魅力をベースボールにふたたび吹き込んでくれる人物でなくてはならない。声援を送りたくなるような人物。たとえお金をたくさんもらっていても、ちょっと顔を見せるだけで恩着せがましい態度をとったりしない人物。
 野茂英雄は、お金だけではなくベースボールが好きなのかもしれない。もしそうなら、彼をコミッショナーに据えるべきだ。
(ジム・マレー/コラムニスト、ロサンゼル・スタイムズ、1995年7月13日)

369 2003年04月30日 (水) 21時24分43秒
●「彼は本物のプロ。私たちはみな彼を尊敬していた」【ブルワーズのスタッフ】(毎日新聞)
[2003年4月21日(月)19時15分更新]

●ウィリアムズ監督が野茂を鉄人・ルー・ゲーリッグと同じニックネームで呼んだことがある。「彼はアイアンホースだ」【2001年に在籍したレッドソックスのウィリアムズ監督(現アストロズ)】(読売新聞)
[2003年4月22日(火)00時10分更新]

●「彼(野茂)が投げる時は勝てると感じる。なぜなら彼は決して投げ出さないし、最後までやり遂げるからね。それに彼の闘争心は、僕たち他の選手にも強く伝わってくるんだ」【ドジャースのチームメイト】(スポーツナビ) 
[2003年4月22日(火)更新]

369 2003年04月25日 (金) 00時10分33秒
メジャー通算100勝達成にあたり

●この世界で100勝するのは大変なこと。毎年コンスタントに勝っているのが野茂さんのすごさだと思う。日本でも100勝はすごい。気持ちも体も並ではできない。日本人のパイオニアとして相当強いものを持ってやってきたのでしょう。【ヤンキース・松井外野手】(共同通信)
[2003年4月21日(月)12時30分]

●100勝はすごい。いくつかのチームに彼は1度終わったと思われた投手だ。きょうの投球が彼の特徴を示している。終わったようにみえて、終わっていない。32年間の私のプロ経験の中で、こんなしぶとい選手は見たことがない。【ドジャース・コルボーン投手コーチ】(共同通信)
[2003年4月21日(月)13時32分]

●100勝はすごいことだと思う。技術だけではなく精神的な強さがないと届かないことだと思う。野茂さんが日本人選手の目標だったし、野茂さんがいてくれたから日本でメジャーが見られるようになったと思う。【ドジャース・石井一久投手の話】(共同通信)
[2003年4月21日(月)13時33分]

●今季はずっと状態がいいようだったから達成できてよかった。メジャーで100勝なんてなかなかできるものじゃない。たいしたものだ。【長嶋茂雄・日本代表監督】
(毎日新聞)[2003年4月21日(月)19時15分] 

●メジャーで100勝なんだから、とにかく素晴らしい。心からおめでとうと祝福したい。開幕戦でジョンソンと投げ合った時にも感じたが、野茂にとって100勝はまだまだ通過点に過ぎないのではないか。150勝、200勝へ向けた新しい挑戦のきっかけになると思うし、ぜひともさらなる大きな目標に向かって前進してほしい。▽【近鉄時代の監督で野球評論家、仰木彬さん】(毎日新聞)
[2003年4月21日(月)19時15分]

●「ピンチになっても、しなやかにはね返して、元に戻ることができる。私の35年のキャリアの中で出会った最もタフな投手だ」「これまでいた各球団が、野茂をお払い箱にしようとした。しかし、野茂自身が『終わってなんかいない』と、今日の試合で言ったんだ」【コルボーン投手コーチ】(毎日新聞)
[2003年4月21日(月)19時15分]

●「100勝は大きなことだ。ただ、本当の意義は本人だけが語れる」【トレーシー監督】(毎日新聞)
[2003年4月21日(月)19時15分]

●「200勝も夢でない。」【コルボーン投手コーチ】(毎日新聞)
[2003年4月21日(月)19時15分]

●上を向いて黙々と歩きつづけた男に、また1つ勲章が増える。 【下山田郁夫】(読売新聞)
[2003年4月21日(月)13時05分]

●「これだけ長い間プレーして、いまだに奪三振の数が多いのが素晴らしい投手であることの証明。健康であればあと5年はプレーできる。」【ドジャース・ラソーダ元監督】(共同)
[2003年4月21日14時49分]

●「これは大偉業だ。特に日本人選手としてはね」と言った。記者の一人が「いろいろな面での対応力が必要になってくるからですね」と聞く。すると同コーチは、「それもある」と言ったあと、「それと彼が乗り越えてきたさまざまな逆境だ。いくつかのチームが彼は終わったと思った時があった。しかし彼は終わらなかった。自分の母国とは違う地で、しっかり逆境を跳ね返してここまできたんだ。私がメジャーリーグに関わってきた32年間で、野茂は最もたくましく、最もタフな“競争者”の一人だ」と。【ジム・コルボーン投手コーチ】(スポーツナビ)
[2003年4月22日(火)]

369 2003年04月20日 (日) 13時12分19秒
Number493 野茂英雄「存在の証明)

●「私はノモのために何一つしていない。ただ彼に(投げる)機会を与えたにすぎない。あとは彼がそれを見事に生かしたのだ。」(ガーナ―監督)

●「私が接した中でノモはもっとも敏感でプライベートな選手だ。それゆえに必要以上に誤解されることもあるだろう。また、日本から来た選手なので、人々は即座の結果を求めようとする。彼にとって不公平だと思う。」(バレンタイン監督)

●信頼を得るのに社交的である必要はない。メジャーリーグという厳しい勝負の世界に身を置く人々にとって、勝負に徹するプロフェッショナルリズムこそが信頼を分かち合う手段なのだ。・・・
「初めての日本人選手だし、簡単に理解できるものではなかった。シーズン開幕後1ヶ月ぐらいかかったと思う。その間彼の様子を観察し、試合への準備、日々の練習、すべてにおいて彼がするべきことを理解していることがわかった。それからだ。ノモが我々の期待に応えて好投してくれるようになったのは。その後は彼を信頼するだけでよかった。」(デーブ・ウォーレスコーチ)

●自分を信頼してくれる人たちには100%の信頼で応える―――それが野茂なのだ。

●どんなことがあろうとも、”トルネード”に代表される自分の投球スタイルを貫き通す断固たる意志。野茂の野球に対する際限のないこだわりが、さらに上を目指そうとする熱意を生み出しているのだ。

●「ノモは自分なりの考えを数多く持っていて、かなり頑固だ。彼に野球について進言するときは、我々が正しいと彼に証明できなければダメなんだ。日米を問わず他の選手もある程度その傾向にあるが、ノモの場合、それが人一倍強いんだ。」(バレンタイン監督)

●「ノモのキャンプを見るのは初めてだが、調整について何の心配もしていない。ピッチングもそうだが、彼が危機に陥ったとき、我々の助けなど借りずに自ら抜けさせるのがノモなんだ。だからこそ、私はノモを信頼しているんだよ。」(ガーナ―監督)

【菊地靖】(Number493 2000年4月6日、野茂英雄「存在の証明)

369 2003年04月20日 (日) 12時36分52秒
●ドジャースのキャンディオッティ投手は、野茂のメディアのあしらい方はうまいと語る。「まるで日本を代表しているみたいに扱われて、ノモもたいへんだよ」とキャンディオッティは言う。「大リーガーが日本へ行っても、大騒ぎはされない。だが、ノモはロサンゼルスではメディア(とくに日本の)にきわめて注目されている。世界でも超一流のベースボール・プレーヤーを相手に投げているというプレッシャーだけでも、気が遠くなるというのに。にもかかわらず、ノモは自分のすべき仕事を真のプロ意識を持ってやっている。そんな彼の態度に、チームの面々は敬意を払うようになってきたと思うね。」
[クリス・ベイカー記者、ロサンゼルス・タイムズ、1995年5月18日]

●「われらがノモは抜群だ。こうやって大リーグで初勝利をあげることが、彼にとってとにかくいいことなんだ。ロサンゼルスにびりびりするような電気が走ってるんだ。久しぶりの興奮だよ。ノモのおかげで停電させるようなことになったら、マジに言っとくがな、私はロサンゼルスからずらかるね。」
(トム・ラソーダ監督)[ロサンゼルス・デイリーニュース、1995年6月3日]<7度目の挑戦でメジャー初勝利を収めたとき>

●「メッツはわずか11日前、シェイ・スタジアムでの野茂英雄との初対戦に勝利を収めた。野茂は評判倒れとしか見えなかった。だが、6月2日の試合をもって、彼の前評判は妥当とわかった。日本版ルービックキューブは、もはや脅威である。」
[アンソニー・ガルガーノ記者、NYポスト、1995年6月3日]

●「いまのところ、ノモはベースボール人気を大いに尻押ししている。いい試合、いいピッチングが見たい、というファンを球場に呼んでいる。ファンがノモのまわりにどっと押し寄せる。彼を愛しの恋人のひとりにしているのさ。」
(アシュリー外野手)[ヘンリー・シュルマン記者、サンフランシスコ・エグザミナー、1995年6月25日]

●「ノモには驚くばかりだ。信じられない。畏れ多いよ。」
「ベースボールはノモを必要としている。ノモが勝負に、そしてもちろんロサンゼルスに興奮というものを取り戻したんだ。大リーグが失った栄光を立て直すのに役立ってるんだよ。」
「誰だってノモが大好きなんだ。日本人はもちろん、米国人も。ベースボール界も、ノモマニア出現さ、まさに現われたんだよ。」
(ラソーダ監督)[ボブ・ナイチンゲール記者、ロサンゼルス・タイムズ、1995年6月30日]

369 2003年04月20日 (日) 12時00分46秒
石井晃の「スポーツ・ジャーナル」 April  16, 2003
想いは「井戸を掘った人」に

ヤンキースの5番、松井選手が本拠地・ヤンキースタジアムの初戦で、満塁本塁打を放った。すごいことである。日本の新聞は、夕刊1面のトップで報道したり、号外を出したりの大騒ぎだ。

いつもは冷静な朝日新聞の「天声人語」も、あのベーブ・ルースやルー・ゲーリック、ジョー・ディマジオの名前を引き合いに出して「劇的な満塁1号だった」「野球少年には夢のような場面だ」と、興奮を隠さない。

なるほど、華々しいデビューだった。彼の活躍に期待を寄せた日本の野球ファンが、我がことのように喜ぶのもよく理解できる。
けれども、である。そこで、へそ曲がりの僕はふっと立ち止まってしまうのだ。
松井の活躍は素晴らしい。いくら褒めても褒め過ぎにはならないだろう。けれども、ほかにも大事な人がいるでしょう。その人のことを忘れてはいませんか、と思うのだ。

そう、日本人選手のメジャーへの道を文字通り切り開いた野茂のことである。
この原稿を書いている11日の登板では、好投しながら打線の援護がなく、惜しくもメジャー100勝はならなかった。でも、すでに99勝もしているんだぜ。
今シーズンの開幕投手になり、あのランディ・ジョンソンに投げ勝って完封勝利を飾っているんだぜ。
すごいじゃないか。

記録は積み重ねてこそ意味がある。1本の満塁本塁打に意味があるのなら、99勝はもっと意味がある。その辺のところをもっと注目してもいいんじゃないか。
何より彼は、日本の野球界がかたくなにメジャーに門戸を閉ざしていたときに、単身、メジャーへの道を切り開いた人物である。ファンからも球団からも、まるで罪人のごとく言われながら、初志を貫き、黙々とメジャーで投げ、実績を積み上げることで、後に続く選手に目標を与えてきた。

毎年のように新しいチームにトレードされながら、コンスタントに10勝前後の勝ち星を挙げ続け、ノーヒット・ノーランも達成している。その雑草のようなたくましさ。
負けて言い訳せず、勝っておごり高ぶったコメントもしない彼は、取材する側にとっては難しい選手であろう。松井のように、いつもにこにこ、はきはきと記者の質問に答えてくれる選手に比べると、何かとうっとうしいかも知れない。

けれども、メジャーリーグへの道を切り開いたフロンティアは誰がなんといおうと、野茂その人である。彼が強行突破で、メジャーに挑戦しなければ、佐々木もイチローも長谷川も新庄も、その後に続けなかったことは間違いない。もちろん、松井の今シーズンの活躍も見ることはできなかった。

中国に「井戸を掘った人の恩は忘れない」という言葉がある。日中の国交回復に尽力したあの田中角栄首相を指して、中国の要人が何度もこの言葉を使ったから、日本でもすっかり有名になった。

その言葉を使えば、日本の野球界にメジャーリーグという井戸を掘ったのは、野茂その人である。その功績はいくら書いても書き足りない。

いつの時代にも、フロンティアはえらいのである。創業者の功績は、末代まで称えてもいいのである。松井の活躍が素晴らしければ素晴らしいほど、その道を切り開いた野茂の功績は輝いてくるのである。
このことを、今日は思いっ切り力を入れて書いておきたい。

【石井 晃】
イシイ・アキラ
大阪社会部記者、デスク、和歌山支局長、論説委員などをへて、2002年4月から編集委員。読書も趣味のひとつで、アサヒコム関西のページで「乱読味読お買い読」を掲載中。
(朝日新聞)
[2003年4月16日(水)] http://www.asahi.com/column/aic/Wed/d_ishii/20030416.html

369 2003年04月20日 (日) 11時57分53秒
来たれ第2のNOMO
野茂英雄投手と新日鉄堺野球部(下)


 「清水さん、昨日の話ですけれど、お願いできますか」

 大リーグ・ドジャースの野茂英雄(34)から、新日鉄堺時代の先輩、清水信英(45)の携帯電話に連絡があったのは、昨年11月末のことだ。

 前日、大阪市内のホテル。オフで帰国した野茂は、清水にある構想を打ち明けた。

 「都市対抗野球をめざす社会人のクラブチームを、ぜひ作りたいんです」
 そして、その監督を引き受けてほしい、と頭を下げた。

 「社会人でも才能のある選手は大勢います。そうした人たちが活躍できる受け皿が必要なんです」

 野茂は雄弁だった。ふだん、無口な男が、熱く夢を語った。

 昨今の不況で、社会人の伝統あるチームの休廃部が相次ぐ。野茂が所属した新日鉄堺も、94年に休部に追い込まれていた。

 日本野球連盟によると、加盟している企業チーム数は高度経済成長期の63年の237がピークだった。それが、昨年末には85にまで減った。

 野茂は、野球人として、社会人として育てられたチームがなくなったことに寂しさを感じるとともに、有望な選手の活躍の場が失われることに危機感を募らせていた。

 「新日鉄からグラウンドを借りられれば、愛着がある堺で、しかも恩義のある清水さんを監督にしてクラブチームをつくりたい」というのが、野茂の強い思いだった。

 野茂は昨年12月初め、もうひとりの男に、クラブチームの渉外とコーチを任せた。元ロッテの捕手だった鈴木俊雄(37)。いまは、野茂が契約しているマネジメント会社の社員だ。野茂は東京・神宮球場の室内練習場で、鈴木を口説いた。

 チームで優秀な選手が育ち、自分と同じように海を渡って大リーグ選手として活躍するかもしれない、と。そして言った。

 「夢が広がるでしょう。やるからには、都市対抗に出場して勝てるチームをめざしましょう。運営費はすべて私が負担します」

 すでに野茂は昨年3月、夢への一手を打っていた。当時、大リーグで活躍していた伊良部秀輝(現阪神)や、鈴木誠(現オリックス)らと米ニューヨーク州に本拠を置く独立リーグ「エルマイラ・パイオニアーズ」の球団株式を買収し、オーナーになったのだ。日本人選手が、米国にわたり、プレーしやすくするのが、主な目的だった。

 独立リーグでは、米大リーグのドラフトにかからなかった20歳前後の選手や、大リーグを解雇された選手がプレーしている。大リーグの傘下ではないが、大リーグ関係者の目に留まれば、スカウトされる可能性は大いにある。

 同じように、堺市の社会人クラブチームでも、選手が大きな大会で活躍すれば、プロや大リーグへの道がひらける。第2、第3の野茂英雄が生まれるのも夢ではない。

 「NOMOベースボールクラブ」と名づけた社会人チームは、来年4月の日本野球連盟登録をめざす。動きが本格化した3月初旬、一般紙やスポーツ紙は、「NOMOの恩返し」と、チーム創設を好意的に伝えた。

 4月12日。新日鉄堺のグランドに、48人の入部希望者が初めて顔をそろえた。春の選抜高校野球の優勝経験者や、中学を卒業したばかりでプロ入りを夢見る選手ら、全国から駆けつけた男たちだ。監督の清水の前で、ピッチングや打撃練習を披露し、実力をアピールした。

 自分を育てた社会人チームを自らつくる――。

 大リーグへの道を一人で切り開いた男がまた、新たな挑戦を始めた。=文中敬称略

【磯洋介】(朝日新聞 be on saturday 一流を育てる)
[2003年4月19日(土)]
http://www.be.asahi.com/20030419/W14/0026.html

369 2003年04月20日 (日) 11時55分45秒
職場が「宝刀」輝かせた
野茂英雄投手と新日鉄堺野球部 (中)


 大リーグ・ドジャースのエース野茂英雄(34)といえば、フォークボールだ。胸からひざまで45センチは落ちる、といわれる。

 その基礎を教えたのは、87年に新日鉄堺野球部(大阪府堺市)で野茂を迎えた、監督の中川善弘(50)だった。

 社会人野球は、79年から金属バットを採用した。野茂の入部翌年からは、投手を打席に立たせず、別のバッターが打てるDH制も導入されることになっていた。監督になったばかりの中川も投手出身。打力アップへの対抗策の必要性を痛感し、野茂に、こうアドバイスした。

 「いくらストレートが速くても、変化球を覚えた方がいい。特にタテの変化は、金属バット対策に有効だ」

 野茂は秋から、フォークの練習に本格的に取り組む。毎日、フォークばかり投げた。

 30球、40球……。でも、まるっきり落ちない。

 捕手だった浜田秀史(36)は「ワンバウンドになってもいい、思いっきり投げろ」とハッパをかけ続けた。

 「野茂は器用なタイプではなかった」

 こう指摘する浜田は、同時に「不思議と本番に強かった。ブルペンで不調に見えても、試合でバッターが立つといい球を投げた」と語る。


 だから、フォークに目覚めたのも試合でだった。ひと冬越した88年春のオープン戦。突然、フォークがイメージ通りにストンと落ちだした。

 その6月の都市対抗予選の日本生命戦で、野茂の「伝家の宝刀」がベールを脱ぐ。2年前の都市対抗で優勝した日生を、3−0で完封してしまう。

 「野茂の速球と落差のあるフォークに翻弄(ほんろう)され、ボールがほとんど前に飛ばなかった」

 当時のエース清水信英(45)は、この試合の野茂の投球をはっきり覚えている。落ちる球の存在が速球をより速く見せた。

 この年、新日鉄堺は都市対抗に大阪・和歌山地区第3代表として出場。初めて東京ドームで開かれた本大会でも、ベスト8まで勝ち進んだ。

 野茂の活躍は、めざましかった。とくに2回戦の大昭和製紙(静岡県富士市)戦では、延長17回を1人で投げ抜いて勝つ。大会で最も活躍した新人に贈られる「若獅子賞」を獲得した。

 野茂はそのまま全日本代表に招集される。夏のソウル五輪(公開競技)では、古田敦也(トヨタ自動車→ヤクルト)、潮崎哲也(松下電器→西武)らとともに銀メダル獲得の立役者になる。思えば、これが「世界の野茂」への第一歩といえた。

 社会人3年目の89年、野茂は文字通りエースに成長。大阪・和歌山の第1代表として出場した本大会ではベスト4まで勝ち上がった。そして、プロ野球のドラフトで史上最多の8球団の指名を受け、抽選で近鉄バファローズに入団した。

 野茂自身が「僕をつくった」と振り返る「社会人野球」の魅力とは何か。

 「チームや職場の一体感でしょうか。合理化で一時帰休や転籍した職場の仲間たちも、『都市対抗の応援で再会できた』と喜んでくれる。選手としては頑張らざるをえないんですよ」

 新日鉄堺に野茂を勧誘した、元監督の浜崎満重(54)は、こう語る。野茂も、同じような気持ちを月刊誌に書いた。

 そして、この思いの発露として、自ら社会人野球チーム結成に動き出している。本拠地は、もちろん大阪府堺市だ。

 チーム名は「NOMOベースボールクラブ」。来年4月に、社会人野球への正式登録をめざす。すでに約60人の入部希望者が集まっている。

 その監督に、野茂は新日鉄堺のある先輩を迎えようとしていた。=文中敬称略

【磯洋介】(朝日新聞 be on saturday 一流を育てる)
[2003年4月12日(土)]
http://www.be.asahi.com/20030412/W14/0026.html

369 2003年04月20日 (日) 11時54分37秒
エースは表情変えるな
野茂英雄投手と新日鉄堺野球部(上)


 背番号10が、大きく見えた。

 3月31日(日本時間4月1日)、米国アリゾナ州フェニックス。大リーグ・ドジャースの開幕戦で、マウンドの野茂英雄(34)はエースの風格を漂わせていた。速球王のランディ・ジョンソン(ダイヤモンドバックス)と投げ合い、完封で今季、初勝利を挙げた。

 8年前に海を越えた日本のエースは今春、月刊誌に「社会人野球が僕をつくった」という手記を載せた。大リーグや、日本で在籍した近鉄での活躍を支えたのは、高校卒業後の3年間を過ごした新日鉄堺(大阪府堺市)の野球部だった。

 野茂に最初に光を当てたのは、新日鉄堺に誘った浜崎満重(52)である。

 きっかけは、知り合いの大阪府立成城工業高の監督から、「1年生にいい体をしたピッチャーが入ったから、そちらの練習に参加させてほしい」という依頼だった。84年夏すぎのことだ。当時、新日鉄堺の監督だった浜崎は気楽に引き受けたが、見て驚いた。体重は100キロを超えていただろう。第一印象は「野球より相撲の方が向いているんじゃないか」だった。

 ところが、実際にブルペンで投げさせてみて、さらに驚いた。球が速かった。すでに、あの独特のトルネード投法で、コントロールはいま一つだったが、30球、40球と投げるにつれて、社会人投手よりも明らかに速くなった。あれだけ体をひねりながら、軸足の右足がずれない。下半身がよほど強くて柔軟でないとできない、と感心した。

 素質に惚(ほ)れ込んだ浜崎は、さっそく勧誘に動いた。

 新日鉄の社員食堂に連れて行き、300グラムのビフテキを食べさせた。「2年後はうちに来い」と誘うと、「はい」。高校生の野茂は、何をいっても「はい」としか言わない。それでも4枚のステーキを平らげた。

 野茂は高校2、3年になると、甲子園をめざす大阪府大会予選で完全試合や奪三振記録を作る。当然、プロのスカウトも動き出した。

 浜崎は本人や父親に説いた。

 「3年後には必ずドラフト1位になる素材だ。いま、プロに行ってもドラフトは下位指名で、独特の投球フォームを直されて、平凡な選手になってしまうかもしれない」

 当時の投手の理想像といえば、あの江川卓だった。左足をピンと上げ、流れるような体重移動とともに、しなやかに投げおろす。野茂の粗削りな投げ方とは、大きく違う。このままプロで受け入れられることはない、という説得だった。

 それが奏功し、野茂は新日鉄を選ぶ。この年、野茂は社会人野球の厳しさを体験した。

 6月、都市対抗野球の大阪・和歌山第3代表決定戦だった。相手は大阪ガス。1点リードされた8回に、野茂はリリーフで登板した。もう1点もやれない場面だったが、ダメ押しのホームランを浴びてしまう。そして、東京・後楽園球場での全国大会出場の道を閉ざされた。

 敗戦の責任を一身に背負ったかのように、野茂は終始下を向き、寮で泣き崩れた。

 そのとき、主戦投手の清水信英(45)が声をかけた。

 「エースになりたかったら、たとえオープン戦でも負けてはいけない。勝ち続けることで、チームの信頼は得られるんだ」

 「ピッチャーは、マウンドで決して表情を変えてはいけない。打たれても、味方がエラーしても、冷静でいろ。エースの表情は、敵からも味方からも常に見られている」

 野茂は後に振り返る。

 「あのときからです。マイナス思考をやめたのは」

 大リーグで、ピンチに立っても表情を変えない野茂の原型が、ここにあった。=文中敬称略

【磯洋介】(朝日新聞 be on saturday 一流を育てる)
[2003年4月5日(土)] 
http://www.be.asahi.com/20030405/W14/0026.html

369 2003年04月08日 (火) 22時20分45秒
●Hideo Nomo is Japan's latest gift to American baseball.
[トム・フレンド記者、ニューヨーク・タイムズ紙、1995年5月3日]

●ロサンゼルス・ドジャースの野茂英雄は、トルネードの愛称を持つユニークな投球フォームで知られている。彼は、身体を豪快にひねるため、さながらリコリス(渦巻状の駄菓子)のように見える。
 この愛称は、大リーグが日本から30年ぶりに輸入したプレーヤーである野茂が、ベースボール界に吹き込んださわやかな息吹という意味でもあてはまるだろう。・・・・
 26歳の右腕投手の野茂が、ドラッグ、配偶者虐待、ストライキ、ロックアウトなどと、俗っぽくも不愉快な醜聞にあまりにも長期にわたってまみれ、荒廃していたベースボール界に、好奇心と興味をくすぐるさわやかな旋風を巻き起こしている。・・
 野茂の話題になると、誰もが金のことではなく、投球方法などベースボールそのものを語りだすのがもっともさわやかなことだ。したがって、野茂がカイロプラティックの整体師の興味をそそり、かつファンをうっとりさせてきたことはまちがいない。
[クレア・スミスコラムニスト、ニューヨーク・タイムズ、1995年5月24日]

369 2003年04月07日 (月) 21時42分17秒
●「私は野茂の態度や話をするときの目つきに好感をもっている。」(ウォーレス・ピッチングコーチ)[キャロライン・フィッツウィリアム記者、プレス・ジャーナル、1995年3月4日]

●「ノモは自分が果たすべき仕事をちゃんとわかってる。それに、その場その場の処理がとびきりうまい。」(ドジャースマイナーリーグのピッチング・コーディネーター グース・グレグソン)[ティム・ブラウン記者、ロサンゼルス・デイリーニュース、1995年4月28日]

●「野茂はメジャーでやりたい一心で、日本での金も名誉もなげうったんです。賭けです。日本の球団でプレーするのもまんざら悪くなかったのですから。いわばリスクをともなう挑戦ですよ。」[東京中日スポーツ紙、竹下陽二記者]<大リーグ入りにあたり>

●)「両親はまっこうから反対でした。『日本で手に入れられるものはすべて持っているじゃないか。富、名声…・どうしてそれを全部投げ捨てるんだ。』と。」それに対し、野茂はこう答えた。「僕の人生なんだ」<大リーグ入りにあたり>

369 2003年04月03日 (木) 21時51分36秒
「野茂は野茂であってほしい」(トレーシー監督)
(朝日新聞)[2003年4月3日(木)]

369 2003年04月02日 (水) 23時12分12秒
 豪腕ランディ・ジョンソンに投げ勝ってダイヤモンドバックスを完封し、チームに1981年以来の開幕完封勝利を与えた野茂英雄投手(34)に、絶賛の声が集まっている。

 地元オレンジカウンティ・レジスター紙は「野茂こそドジャースのエースだ」と伝えた。

 「今日はオダリス・ペレスが投げ、あすはケビン・ブラウンが投げるが、ドジャーズの真のエースは野茂で決まりだ。野茂の球を受けたロデューカ捕手も『野茂という男は大試合になればなるほど真価を発揮する。信じられない強さだ』とコメントした」と同紙。

 また、USATODAY紙も、「本来はランディ・ジョンソンの快投を絶賛するための試合で、ノモがヒーローとして躍り出た」と伝えた。

 その20億円投手、ジョンソンも野茂には脱帽している。

 「今日は、ひどいミスをいくつか犯してしまった。話は私の側にはない。むしろ相手(ドジャース)サイドの話に尽きると思う。野茂はもともといいピッチャーだから、あの快投は驚くに値しないが、本当に去年の秋からの好調を維持しているね」(夕刊フジ)
 [2003年4月2日(水) 13時7分更新]

369 2003年04月02日 (水) 23時10分29秒
「NOMO IS THE MAN」(野茂は男の中の男だ!)。球団が作成して配布した資料にも、こんな見出しが躍る。-----(日刊スポーツ)
[2002年9月18日]

369 2003年04月02日 (水) 23時03分06秒
球史に残る英雄 首相が野茂投手を絶賛

 小泉純一郎首相は1日夜、米大リーグの開幕戦でドジャースの野茂英雄投手が完封勝ちしたことについて「開幕投手に選ばれるのもなかなかできないこと。完投も難しいのに完封でしょ。まさに英雄だね。球史に残る英雄中の英雄だ」と絶賛した。(共同通信)
[4月1日21時24分更新]

369 2003年03月30日 (日) 21時57分55秒
●日本が生んだスポーツ界の世界遺産(スポニチ)
[2001年4月6日]

●「真面目な生徒だ。よく野球を勉強する。試合中も常に何かを考えているし、ツボ、技術を知っている。本当はあまり期待していなかったんだけど…。」

 「本当のことを話そう。(ブルワーズ時代に)サルバンドGMから、野茂の話を聞いた時、私から条件を出した。「使ってみてダメだったらすぐにクビにしてほしい」と。それが登板させるたびにいいピッチングをした。次も、次も…。私の予想はすべて覆された。私は野茂を好きになったんだ。どこが? 一番は野球に打ち込む姿勢だ。よく勉強する投手だ。」

「彼はわたしの監督生活の中で最高の投手といっていい。」

「選手全員が“野茂”だったらいいんだけどね…。」(ガーナ―監督)
(大阪日刊スポーツ)[2000年7月18日]


●「野茂の性格や考えは昔と変わらない。でも、スケールは大きくなったような気がします」
(「NOMOベースボールクラブ」の初代監督 清水信英さん)
(毎日新聞朝刊)[2003年3月9日]

mm 2003年03月30日 (日) 19時45分32秒
●Untouchable Nomo to the rescue
Debuting pitcher gives Red Sox first no-hitter since '65
It's a headline-writer's dream. Nomo No-No, Nomo Curse, Nomo Nanette, Mr. Nice Guy (The Boston Globe)

Hideo No-No!
Newcommer dazzles O's for first Red Sox no-hitter since '65
[2001年4月5日]

●野茂はサイ・ヤング賞を2回連続して獲得したレ軍のペドロ・マルチネスに傾倒 『ペドロになりたい』というほどの大ファンで、 年下なのに頭を下げて投球術を教わっている。 そして、『まずストレートなんだ』と言う。その“師匠”の教えが野茂を活性化させた」
そのペドロ・マルチネスの言葉。
「自分が投げるより、見ている方がナーバスになるよ。 ベンチでノモに声をかけられなかったもの。 ノモのことは人間として、 アスリートとして尊敬しているので、自分のことのようにうれしい」(スポニチ)
[2001年4月6日]

●彼はすごい投手さ。どんなに凄いかって?観てたなら分かるだろ
(ボンズ)

●好きな野球を実力の高い世界でやりたいという野球少年の夢を
復活、実現させた【作家 玉木正之】
[96年野茂オールスター出場決定後]

●彼はラッキーではない。運はつくるものだ
(ラソーダ監督)

●野茂を送り出してくれた日本にもありがとうと言わなくちゃな
日本人はもっと野茂を誇りに思うべきだ
(ラソーダ監督)

●名誉も金も関係なく、日本の野球界にきっぱり見切りをつけ、自分の可能性を試すために一人で大リーグへ乗り込んできたノモの男っぷりに脱帽する
(ボンズ)

●黙ってベンチからグラウンドを見つめる、あの真剣なまなざしが好きなんだ。彼こそは野球選手の模範であり、我々が考え、尊敬する本当の意味での日本人なんだよ
(オマリー会長)

●やたらリップサービスをする選手が多い中、野茂は多くを語らない。野茂の表現方法は言葉ではなく、右腕なのだ。彼はアメリカ人が忘れかけていたタイプのヒーローである
[TIME誌95年7月25日号]

●英語がしゃべれないのは気にするな。ボールがしゃべってくれる
(ドジャース キャンディオッティ)

●数字では表せない無形のものを大リーグに残した
(CNN)[野茂新人王受賞に]

●大リーグ史上最高ランクの快投だ
(ラッセル監督)

●NOMO-mania is gone, but he is still a gamer
−USATODAY Baseball weekly Bob, Nightengale
[野茂、ブリュワーズ入団後の特集記事で]

●野茂は人の作った道を歩かない。自らが足を踏み入れた荒地が道になる【二宮清純】
(スポーツニッポン)

●もう殿堂入りだよ、野茂はまだ死なずだ。忘れてもらっては困ると訴えていた【村上雅則氏】
[野茂2度目のノーヒットノーラン達成に]

●馬車馬のようにタフな性格だ
(レッドソックス、ウイリアムズ監督)

●「野茂さんは凄い、野茂さんがいたから僕らが今あるんだ」
(石井投手)

●野茂の仕事を形容する言葉が見当たらない
(トレーシー監督)

sam 2003年02月15日 (土) 15時17分08秒
野茂、早くも2度目開幕投手濃厚に

コルボーン投手コーチ「候補のひとり」
相手はあのR・ジョンソン確実
 ドジャース・野茂英雄投手(34)の2度目の開幕投手が濃厚になった。ド軍のコルボーン投手コーチが「候補のひとり」と明言。左腕エースのペレスとの争いになるが、7連勝で閉幕した昨季終盤の安定ぶり、開幕で激突するDバックスのランディー・ジョンソン投手(39)に昨年、投げ勝っている実績から、順調に調整が進めば、00年のタイガース時代に続く大役に指名されるのは間違いない。


勝てばメジャー100勝王手!!

キャンプイン初日から野茂はブルペンで投球練習(共同)  エースの貫録が漂っていた。9度目のキャンプイン。初日から捕手を座らせ、27球を投げ込んだ。「明日も投げる予定ですから」と野茂は少ない球数を説明した。だが、その後も、けん制やバント、ノックと精力的に体を動かした。

 コルボーン投手コーチは「野茂は開幕投手の候補のひとりだ」と早くも口にした。トレーシー監督は「開幕投手? キャンプ初日からばかげた話をしないでくれ」と首を横に振ったが、その胸のうちに「NOMO」があるのは間違いない。

 今年のド軍の開幕投手は、通算183勝のエース、ブラウンが調整不足で出遅れているため、昨年15勝を挙げた2年目のペレスとの一騎打ちになる。だが、実績、経験、昨年7連勝で閉幕した安定度を加えた総合力で首脳陣の期待も高まる。

 ド軍が3月31日の開幕戦で対戦するのはDバックス。ド軍と同じナ・リーグの西地区に所属する強豪で、昨年は地区優勝を飾った。マウンドに上がるのはメジャーを代表する左腕、ジョンソンが確実で、敵地で戦うハンデも含め、ド軍には不利。逆境を力に変えるのは野茂しかいない。

 昨年、Dバックスには3試合22イニングを投げわずかに4失点。勝敗こそ、1勝だけだが、その白星こそ、ジョンソンに投げ勝ち、野茂自ら二塁打を放った7月1日のものだ。00年、タイガース時代に開幕マウンドを踏んだときは、アスレチックスを相手に7回を3失点。現在、ヤンキースに移籍したジオンビーに2本塁打されたが、粘投で勝ち投手になった。

 練習後は、30人の報道陣に囲まれた。松井の自主トレには70人を超える日本人記者が詰めかけているが、日本人メジャーの道を切り開いたパイオニアも負けていない。報道陣とのやりとりも余裕たっぷり。前日まで蓄えたひげをそった。「キャンプインに合わせた? かゆかったからです」と答え、笑いを誘った。

 あと2勝に迫ったメジャー通算100勝。「(通過点だから)できれば、早いうちに(達成したい)」と話した。大記録へ向け、砂漠の町、フェニックスのバンクワン・ボールパークでトルネードが砂じんを巻く。
 
42歳までやるランディー強気

 対するランディー・ジョンソンも13日、アリゾナ州ツーソンでキャンプイン。「闘争心がある限り、当分この調子を持続できる」と今季も、100マイル(約161キロ)の速球に自信をみせた。

 昨年は24勝5敗、334奪三振、防御率2・32でナ・リーグ17年ぶりの投手3冠王に輝き、サイ・ヤング賞にも4年続けて選出された。9月で40歳を迎えるが「まだ2、3年は十分投げ続けられると思うよ」と言い放った。

 このオフは、メジャーの通算奪三振王、ノーラン・ライアンを育てたトム・ハウス氏の進言で専属トレーナーと契約し、体のケアも万全。年齢による衰えを最小限に食い止め、ライアンのように47歳まで投げ続けるのが目標だ。(報知)
[2003年2月14日(金)]

チュウ 2003年01月16日 (木) 23時26分39秒
 野茂は野球が好きなのです。初めてドジャースとの契約が成立した時、野茂が見せた底抜けの笑顔を、私は今でも忘れることができません。近くで接すれば、いつも飾らない自然体の男です。生き方、器の大きさ、懐の深さ、すべてが野茂の魅力です。
 私にとって、野茂英雄は世の中にたった一人しかいない男なのです。
(代理人 団野村、日本プロ野球を根底から変えた男、文藝春秋2003年2月号)

チュウ 2002年12月26日 (木) 06時30分50秒
野茂パイオニアーズに147キロ日本人右腕

 今季まで社会人野球のトヨタ自動車に所属した荒川祐輔投手(24=高岡法科大)が、ドジャース野茂英雄投手(34)が共同オーナーを務める米独立リーグ、エルマイラ・パイオニアーズの入団テストに合格したことが24日、明らかになった。
 荒川は挑戦を決意しこの日までに家族、関係者を説得。世界屈指の大企業トヨタ自動車社員の肩書も迷いなく捨てる。会社に残れば安定した生活が保障されるが「不安とかはないです。もう1度野球をやれる機会を与えてもらったわけですから」と言い切った。

 00年春、トヨタに入社した。しかし右肩、右足の故障もあり、在籍3年間の公式戦登板はわずか4試合。今季は万全の状態ながら公式戦登板ゼロ。10月末には戦力外通告を受けた。それでも落ち込むことはなかった。「野球は絶対に続けるつもりだった。3年間、本当に不完全燃焼だったので」と、新たな道を自ら探った。周囲の勧めもあり、野茂オーナーが直接足を運んだ11月30日の入団テストを受験。その場で147キロの直球を投げ込んで即、合格を勝ち取った。

 野茂からも直接声を掛けられた。野茂の代理人を務める団野村氏からは来春の米大リーグ球団トライアウト受験も打診された。実力が認められれば、メジャーへの道が開く可能性もある。

 ◆荒川祐輔(あらかわ・ゆうすけ)1978年(昭和53年)3月26日、埼玉・越谷市生まれ。金杉小4年の時に外野手として野球を始める。松伏中から越谷東に進み2年秋から投手。3年夏の埼玉大会は4回戦敗退で、甲子園出場経験はなし。富山・高岡法科大4年春にエースとして大学選手権出場。00年トヨタ自動車に入社し、阪神安藤優也投手(24)は同期。直球の最速は147キロ。持ち球は直球、スライダー、チェンジアップ。177センチ、74キロ。右投げ右打ち。(日刊スポーツ)
[12月25日]

sham 2002年12月23日 (月) 02時33分35秒
「うちのピッチングスタッフの中で、ジブラルタルの要塞のようにそびえたっているのが野茂だ」ドジャース、ジム・トレーシー監督 (Number Web, 2002年8月4日(日), Los Angeles Times, JASON REID, TIMES STAFF WRITER)

sham 2002年12月17日 (火) 03時21分30秒
リニューアルにつきテスト。

チュウ 2002年10月14日(月) 1時 50分 38秒
「野茂にはみんなが畏怖の念を持っている。彼が投げると、チームが自信を持てるんだよ。」(ドジャース、コルボーン投手コーチ、朝日新聞、2002年9月30日)

ただ活躍するだけではない。言葉も人種も超え、チームの精神的支柱にさえなっている。(朝日新聞、2002年9月30日)

sham 2002年4月8日(月) 19時 23分 29秒
リニューアルにつきテスト。

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