作者のコンピュータ歴
- 大学2年の時(1967)、紙テープ式の計算機の授業あり。言語はALGOLIP(現在のPascalに似ている)。
- 大学3年の時(1968)、計算機センターの授業でFORTRANを教わる。カード式。この時は待ち行列のシミュレーションをした。
- 入社当時(1970)は、やはりFORTRANを使って技術計算。当時の職場には計算機のプログラミングができる人は少なく、珍しがられた。そういう時代だった。
- パソコンはMSX2(8bits 3.58MHz 64kbyteRAM/128kbyteVRAM)から。徳間書店発行の「プログラムポシェット」という雑誌があり、各種パソコンのゲームプログラムが投稿されていた。おもしろそうなものをMSX2に移植して楽しむ。Z80のマシン語を勉強、ディスアセンブラをBASICで作り、ゲームカセットをディスクに読み出して解析したり、付属ワープロソフトをエディタに(テキスト形式で保存できるように)改造したりした(いけないことだったのね)。MSXの思い出
- 1985年頃か、会社にIBM 5550というパソコンが入り、これを使って年賀状の宛名書きに挑戦。画面の文字の拡大とスムージングをBASICで組む。画面の文字のドット数が多かったので結構きれいに印刷できた。当時は年賀状の宛名をパソコンで書いたものはなかったから、先進的な試みであった。
- 会社ではPC-9801が普及しはじめ、MultiplanやdBASE IIIを使って予算管理のプログラムを作る。
- MSX2をつかって「ののぐらむ」(お絵かきパズル)を解くプログラムを作成。30 x 35くらいだと30分以上かかることもあった。
- 1993年、アメリカに出張したときに486SX 25MHzマシンを購入(メモリは4Mbyte)し、「ののぐらむ」をQBASICに移植すると1分くらいでできるようになって感激(後日フリーソフトを調べると、公開されているソフトの中にはずいぶん速いアルゴリズムのものがあり、私のソフトなどは足元にも及ばないことが分かった)。ニフティサーブに加入。
- 1994年、アメリカに赴任。アメリカの製鉄会社のオフィスで仕事を始めた。パソコン1人1台の環境におどろく。電子メール(英語のみ)があったのでトライした。日本とはishを使って通信したが、それでも文字が他の文字に変換されてしまい、苦労した(というか、それを楽しんだ)。
- 1995年、日本の方でも電子メールが徐々に普及してきたので、コンピュサーブに加入、日本語で通信できるようになった。日本では知られていないが、Kakitoriというソフトがあり、コンピュサーブの受信メールをクリップボードにコピーするだけで日本語になおしてくれた。その後、日本の通信ソフトを使えば直接日本語が読み書きできることを教えていただいたので、KTX for Windowsを使ってコンピュサーブに接続するためのマクロを書いて使用した。さらにその後、インターネットプロバイダを使えば電信八号などの電子メールソフトが使えることが分かり、そちらに乗り換えた。当時は3時間以内無料というプロバイダもあり、4年間1セントも払わずに電子メールを使えた。
- 1995年、Pentium 120MHz機(メモリ16Mbyte)を購入。出たばかりのWindows 95がプレインストールされていた。業務の電子メールも多くなってきたが、日本の会社からのメールに半角カナがあると「文字化け」することが多かった(エンコードの方法が少し特殊だった)。また、アメリカ生活や文化などを話し合うメーリングリストに加入したが、そこは英語用ウィンドウズで無理やり日本語をあつかったりしている人がいるためか特別に「文字化け」が多い世界であった。これに対応するためにMSワード用のマクロを書いて、電信八号の一時ファイルの半角カナの部分を修正のうえページブラウザに渡して正しく復元できるようにした。
- 1996年、「フリーソフトシェアウェアPACK10000」を購入。フリーソフトの世界の広さを知る。アメリカの税金を計算するためのスプレッドシートを作成。
- 1997年、アメリカでDelphi 1.0を購入。ウィンドウズプログラムを勉強。習作Den8Viewを発表。同時にホームページを作成。
- 1999年、日本に帰国後会社の電子メール(パソコン通信方式)の送受信をTera Termで行うマクロを書く。メールを電信八号の形式で扱うため、ほとんどパソコン通信であることを意識しないですむようになった。
- Linuxを導入するために大容量ハードディスク(17GB)を購入。BIOSが対応していないことに気づき、がっかり。HDDメーカの専用プログラムでHDDは使えるようになったが、この専用プログラムがLinuxに対応していない(Linuxは以前からのHDDにインストールするしかない)のと、Linuxインストールの途中で新しいHDDの内容を消してしまい怖くなったのとであきらめた。
- 2000年、再びアメリカに赴任。Delphi 5を購入。Den8Viewを32ビット化。アメリカの会社では操業ログを分析するソフトをTeraTermのマクロを使って書く。
- 2001年、帰国後メールデコード補助プログラムを作成。Vectorに公開。
- Celeron 500MHz 192Mbyteのノートパソコン(Windows Me)を購入。家庭内LANをつくり、ファイルバックアップができるようになった。
- 2002年、CGIを使ったページを開設しようとするがうまく動作しない。テスト環境を作成するために再びLinuxに挑戦。HDDを増設した古いPCのBIOSを更新してLinusをインストールしたが、ネットワークカードを認識できないのでスタンドアロンでしか使えない、ゲーム専用の状態。
- 2003年、VineLinuxをいれたらネットワークカードを認識した。念願のCGIで掲示板を作成。
- 2004年、勤務先の「システム業務支援」を依頼される。ネットワーク系統図もなく、ウィルス対策ソフトの設定も不十分。@ITにある、「にわか管理者奮闘記」とそっくり。
- 各クライアントの状況を調査するためのソフト「PC管理」とそれをクライアントに配布するための「CopyRun」を制作公開。シェアウェアにしたところさっぱり反応がない。
- マイクロソフトのGDIPLUS.DLLに脆弱性があることが判明。サードパーティから配布されたDLLを検出する手段が提供されないので、GDIPLUS.DLL更新プログラム UpdateGDI+を公開。窓の杜で紹介され、その週のトップニュースとなる。
- 2005年、勤務先の基幹システム更新を担当。いわゆるオープン系システム。既存のNECオフコンからデータを移行するために「COBOL漢字」を制作。それまでの技術系の仕事から、会社の営業・生産管理・経理などにも知識が広がった。原価計算の仕組みも多少勉強した。
- 2006年、Celeron M 1500MHz 512Mbyteのノートパソコン(Windows XP Home)を購入。2001年購入のPCはこわれた。
- 勤務先のログ管理をするためにソフトを制作。携帯電話(docomo)の通信記録分析、コピー機(富士ゼロックス)のログ分析、プロキシサーバのログ分析など。
- 2008年、自宅のインターネット接続をダイアルアップからADSLに変更。ブログを始めることができるようになった。それまでは、電話回線が光収容でADSLが不可能だったが、近所の家が光ファイバーに移行したとみえて、銅回線の余裕が出てきたらしい。要するに、周回遅れの環境を使っているということ。
私のとほほ パソコンのトラブルメモ
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