伊福部昭氏の著書『音楽入門』
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伊福部昭=日本の音楽神 |
伊福部昭著 『音楽入門 Revision 1985(1951)』 のテキトーなダイジェスト。ぜひ本物を読んでみてください はしがき音楽とは、直感的な、ある意味で原始的感覚による芸術です。音楽を鑑賞するときは、絶対的な権威の解説や定評というものより、まず裸になって、自分の印象、感動を尺度の第一とすべきです。勿論、その上で自分の審美眼を磨く為に、高度の意見を勘考することは重要です。しかし、自分の尺度が無い人は決して高い位置には辿り着けません。 一、音楽はどのようにして生まれたか音楽とは既に在るものであり、言葉の定義では全てを言い表せないものです。よって重要な事は、私達が音楽をどのように認識してきたかという事です。 音楽の三要素・・・律動(リズム) 旋律(メロディ) 和声(ハーモニー) 現在の原始民族を見ると、詩(歌)と踊りと音楽は不可分=同じ物であって、独立した音楽という存在への認識はありません。また、彼等が持っているのは、ほぼ律動(リズム)に対する感覚だけです。恐らく人類初期の音楽は、律動だけが宗教儀式的な詩や踊りと共に在ったのでしょう。 次に人類が持ちえたのは、旋律(メロディ)に対する感覚です。明治以前の我が国の曲には、和声的な部分は無く、殆ど全て旋律的な音楽です。西洋では、古代ギリシアから中世当時の曲に相当します。 中世後期、西洋の教会で斉唱(皆で同じ歌を歌う事を)するようになった頃、男性・女性、老人や子供が全く同じ高さで歌うのは無理なので、次第に別の高さで歌うようになり、その美しさを認識したのが、和声(ハーモニー)の始まりだと考えられています。 音楽は、こういう順で生まれ認識されてきたわけですが、原始的な感覚である律動の次元が低いとか、高度な耳を必要とする和声が高尚であるということではありません。その曲が音楽の三要素の内、一体どの要素を強調しているか? 全てをバランスよく全うしているのか? あるいは、律動的な曲、旋律的な曲、和声的な曲、それらが融合された交響曲を聞いて、自分がどういう曲に惹かれるか、等々を意識し考える事に意義があるのです。 二、音楽と連想音響が呼び起こす心情感覚には2種類あります。「直接的な感覚」と「連想」です。打ち上げ花火の音は火薬の爆発する音であり、直接的には不安や恐怖を呼び起こしますが、連想としては、のどかな祭りの風景等を思い起こさせます。 音楽を鑑賞する際は、この連想を捨てなければいけません。連想は連想を呼び、終には元の音楽からかけ離れた所に行くのです。勝手な幻想を真の鑑賞であると考えるほど、馬鹿げたことはありません。先人がその曲を聴いた感想文を読んで、その人と同じ情景を思い浮かべても、その音楽の実体とは関係ありません。 映画や劇の伴奏は、標題音楽、効用音楽と言い、キャンペーンのポスターや小説の挿絵と同じで、純粋音楽とは目的や用途の違う別物です。曲の題名や歌の歌詞から来る連想は、言葉に対する連想であって、その音楽自体の直接的な感覚ではありません。 ことに日本では、古い曲の殆どが標題・効用に類するもので、長くその伝統が有るため、曲を聴いて連想、幻想することこそが真の音楽鑑賞であるかのような、誤った鑑賞態度が流布されていますが、連想・幻想は、それ自体が主になってしまい、その音楽を従にしてしまいがちです。まず、その音楽そのものの持つ直接的な印象効果を汲み取るべきなのです。 三、音楽の素材と表現絵画の裸婦像を、芸術たらしめるか、春画にするかは、もちろん見る人の素養にも関わりますが、掛かってその作家の技術と手法によるのです。子供の為に盗みを働いた哀れな親の話を、ただその場で忘れ去られる新聞記事にするのか、永遠の名作『レ・ミゼラブル』にするのか、それが芸術の表現力です。音楽でも、何々を素材にしているから高尚だとか下等だとかいう事は無いのです。 四、音楽は音楽以外の何ものも表現しない音楽を解する人と知らない人の間では、駄作『ツァラトゥストラはかく語れり』と傑作『ジムノペディ』の評価は逆転するようです。個人の美感の差もあるでしょうが、題名や演奏形態に影響されているのです。駄作に付けられた哲学的なタイトルは、下手な画家が作品に『出征前の日』と題をつけて絵の感動を高めようとしているのと同じです。題名や作曲家の思想ではなく、純粋に音楽を聴きましょう。見事に構成された音楽作品こそが哲学になるのです。 五、音楽における条件反射“パブロフの犬”の様に、前述したような不純な思わせぶりな音楽を本格的なもの・壮大重厚なものと教え込まれると、響きが似ているだけで壮重な曲と感じてしまいます。私が子供の頃も、無闇な音楽溺愛者、売る為の誇張された宣伝解説、誤った教師に盲従するしか有りませんでしたので、つまらない作品でも世評が高いから感動する筈だと自分に言い聞かせるという、実に間違った努力をしていました。 誤った教育を受けるよりは、音楽から遠ざかる方が賢明です。真の音の美しさを知るには、一旦は既成の観念を捨てなければなりません。 音楽家の家に生まれ色々な立派な曲を聞いていた筈のストラビンスキーは、自分が初めて心惹かれた音楽として、少年の頃、乞食が腋の下に手を入れてブーブー鳴らしながら奇妙な声で歌った唄だと述べています。そこに音楽家としての彼の感性が認められるのです。 初めから村祭りの笛に耳を閉じ、道端の地蔵に目を向けない人は芸術家とは呼ばれません。定評がある物が全てつまらないというのでは無く、条件反射に支配されない耳で音楽を聞くのでなければ、知性を持つ人間としてこんな恥辱は無いでしょう。 六、純粋音楽と効用音楽以上述べたことは純粋音楽についてです。絵画には、店の看板、ポスター、挿絵等、その効果に主眼が置かれるものが在ります。音楽にもこの種の“効用音楽”が在り、その価値が純粋音楽より低いというのでもありません。効用音楽の完全さは、その目的への適応の度合いによります。ポスターや挿絵が見事でも、効果がなければ成功ではありません。音楽に於いても、例えば士気を鼓舞しない軍楽は失敗作です。そういう音なら何でもいいというのでは無く、効用音楽には、純粋音楽に効果という別の尺度が参加するのです。 ギリシア以来、舞台劇では人物の死と同時に鐘が鳴り悲しい旋律が流れるのが普通ですが、それを現代映画で使用すればコミカルに感じるかも知れません。効用音楽はその時代的な受け手の差や用途の組み合わせによって異なった印象を与えるのです。そこに、純粋音楽と効用的に使われる音楽の違いが在ります。 七、音楽における形式長い列車が目の前を横切れば、例えば初めの四両は三等、食堂車をはさんで次の四両は二等、次が一等、最後に展望車が順番に過ぎていくでしょう。音楽を時間的な立場から見た場合も、このような何らかの秩序・系列が在り、それを音楽の“形式”と言います。かつて音楽が詩や踊りから逃れて独立した後に、本格的な音楽の形式が生まれました。西洋では、二部形式、三部形式から始まり、ロンド形式、ソナタ形式その他種々の形式が出来あがります。 西洋音楽はシンメトリー(前後や左右や上下が対称になった形)による安定を好みますが、我が国ではこのバランスを崩すことに情熱を注ぐようで、民族的な審美眼の違いがあるようです。芸術における安定とは、普通のヤシの木は安定この上なく見えるのに、石造りにすれば上方が大きい為に不安に耐えないという具合に、構成する素材によって変わるのです。西洋音楽はシンメトリーに立脚しないと安定感が与えられないのかも知れません。 そういう形式に立脚した見地からも音楽を聞いてみましょう。なお“形式”つまり音楽の建築構造と似た観念に、音楽“様式”がありますが、これは“スタイル”つまり音楽の付ける衣装(建築で言うと飾り付け)という意味であって、混同してはいけません。 ●八章と九章は、音楽の歴史と、1951年当時の主な純粋音楽のジャンルを紹介したもので、伊福部氏の意見よりも紹介説明が主ですし、やや専門的かつ詳細に渡るので割愛します 八、音楽観の歴史(古代・・・十九世紀) 九、現代音楽における諸潮流 十、現代生活と音楽機械文明以前は、農作業・漁り・馬追と何をするにおいても、どんな冠婚葬祭においても、自分達の唄を持っていました。現代は一部の人間によって選定された曲が、テレビ・ラジオその他によって強制的・暴力的に降りかかってきます。いわば、音楽は私たちの生活を無視しているのです。無神経なハリウッド映画には、必要も効果も無いところにただ意味の無い音楽が詰め込まれ、殆ど全部が音楽に満ちています。現代の音楽は単に音響であれば良くなり、どんな粗雑な作品でも立派に音楽として通用し、放送から流される音楽は、強烈な印象を与えようとしながら、逆に何をも与え得ないという事になっているのです。 こういう音の洪水に溺れる音楽は、もはや何らの精神的準備も無い所にいきなり現れる騒音と化し、これを無視して聞き流さざるをえないのです。このように、強制的に音楽を音楽自体として聞かないように習慣付けられた耳を、再び音楽を理解する耳に戻すことは困難です。逆に意識して音楽作品を聞く場合には、そこに無理やり何らかの哲学や文学や記憶のイメージを結びつけるという、さきに述べた音楽自体を鑑賞するという態度からかけ離れた方向に向かうのです。 これを救うには、出来るだけ音楽から逃れることです。選ばれた作品を、毎日では無く時々意識して聞く方が、音楽についての理解を深められるでしょう。 「五音は人の耳をして聾にせしむ」 老子 二千年以上前の老子の言葉ですが、五音(中国の音階)すなわち音楽に執着、惑溺すると、却って真の音楽が分からなくなるという意であります。 十一、音楽における民族性ナポレオンが、民族や各国の慣習を無視して統一国家を夢見たとき、西洋芸術の世界ではそれまでの国際性重視から、民族主義を重要なものとして意識し出しました。音楽では 「ワーグナーとヴェルディを間違えること、シュトラウスとドビュッシーを間違えることは誰にも出来ない。かくのごとく個人においては著しい差を持つに関わらず、シューマンとウェーバーの曲には共通因子がある、それが国民性である」−ヴォーン・ウイリアムズ というように、同一の旋法、同一の和音を使用してなお、このような現象が現れるのであります。 18世紀、ロシアの皇帝は自国を非文明国と考え、生の外国文化を取り入れました。音楽においてはロシアの民族音楽や民族楽器は低俗と追いやられ、当時音楽の最先端であったイタリアの音楽家が招かれたのです。ロシアの聖歌がイタリア紛いに改悪され、貴族と文化人がこれに賞讃の拍手を送ったのです。 現代の日本はこれに似ていないでしょうか? 固有の文化は低俗として追いやられ、いかに西洋人を真似するのかが教養の尺度と考えられている面が無いでしょうか? 外国人の見解は、いかに低俗・醜悪でも本格的として迎え入れていないでしょうか? 音楽に関して言えば、真の音楽教養とは、外国から学び取った知識と影響を乗り越え、自己の肌色に立ち戻って思考し表現するものでしょう。 くだんのロシアでは19世紀の中頃、パラディエフ、ボロディン、ムソルグスキーらによって、イタリア紛いの音楽に代わり、新しいロシア自身の音楽が創設されます。しかし当時の芸術家や貴族は、口を揃えてこれを「野鄙」「素人」と非難したのです。したがって、作家は権威の非難を受けようが、自国の語法と様式で語ることを恥じてはならないのです。もし、自国の語法が醜く感じられるなら創らない方が賢明です。 民族性の表出が芸術の第一義だというのではありません、音楽には民族的な意識が必要だというのでもありません。自己に身近な物が理解できない人間が、真に万国的なものから感動を読み取ることは覚束ないでしょうし、そういう意識の無い人間からは国際的な訴えを持つ作品は生まれえないというのです。 あとがき不要な事に饒舌で、必要な事に触れませんでした。音楽は他の芸術とは違い、作曲家がどんな作品を書いても、演奏によって変わるのです。管弦楽に当たっては生活と思想を異にする100人によって再現される事を忘れてはいけません。これはただに、設計図と建築だけに共通なことです。 一つの知識が進歩する段階には、必ず議論があります。音楽にあたっても、自己の見解の確立の為には必ず“戦さ”を覚悟しなければなりません。新しい見解が全て正しいというのではありませんが、労せずに大勢の流れる所についたのでは、決して真の途は発見できないのであります。 「不遜な一面がなくては芸術家ではない」 ゲーテ 音楽も芸術であることを忘れないようにしたいものです。 このページは、1024×768画面に合わせて作りました。ちゃんと見えなかったらスミマセン |