5月

5月3日(月)

最近偉そうなことを書いていたりしますけど、また毎日がうつろになってきていました。日記に書くことが無い。いつも定型文になってる…。日記をその日のうちに書かないのは大体そのせい。そう、大学一年の頃に感じていた感覚と似ています。良くいえば平和、平穏、安定。でも悪くいえば無努力、無思考、どうでも良くなってる。居着いている。平和ボケている。悩んでない。ダメになっていく感じがする。生きていてふわふわしている感じがする…現実が現実として見えていないんだよ。夢と現実の境にいる感覚。ゴールデンウィーク:無駄に長い休み、やる事が見つからず、どうしても起きるのが遅くなってしまう…。現実に生きていない証拠だよね。

ここ数日ずっとその感覚が続いてたので、今日ぱっと行動を決めました。勿論無計画なんだけどさ。一人、道場に行く事にしました。とはいっても、誰もいない支部道場なんだけど。大学自体、人の気配がしません。一人入る暗い道場はまた違って見えました…道場には連絡ノートがあるんだけど、この道場は色々事情があって、書く人が殆どおらず、最初の書き込みは1987年5月…17年間使ってる…。昔の書き込みを見ていると、ちょっとは賑やかだったみたい。かつてはそこに集団がいて、があったのでしょう。今は無い。その連絡ノートには、私の会った事のない人々がいました。でもそこにいるような感じがする。恐らくこれが、他人の像なのでしょう。日記みたいな他人の書き込みから、<他人>がうつされるという事なのかなぁ。このカギ括弧他人は、今目の前にいる他人じゃなくて、自分の中にいる他人ていう意味です。まぁこんなの永井先生の真似してるだけだけどさ。

昔の日記を読み返して見ました。…いやー、忘れてますね。何考えてたかなんて。何を思っていたか。大学一年の冬あたり、私はちょっと好きです。なにやってんだろうてね。自分の取ってきた行動が、良かったのか悪かったのかわからない。そして、そのときが懐かしく思えてくる。スキー旅行なんてのも行きましたね。春合宿もありました。そのあたりで、他人の自分に対する見方が気になってたのかも。…本当は全員に聞きたいことがあるんだけど、私は今はまだいえないような…。

そうだねぇ、平和ボケしているけど、その平和すら、おそらくなくなるかも。私はある意味それだけの難問を抱えているともいえる。でもそれを乗り越えられたら、きっと自分らは成長できると思うし、仲間はより深くなれる気がする…のは楽観的かな。


5月9日(日)

こんばんは。書いてませんでしたが、カウンタが5000突破してましたね。まぁどれくらいリピーターの方がいらっしゃるのかは不明ですが、どうもありがとうございます。

今週から一週間、合宿してきます。それ故に何があっても更新できませんし、問題が起きても対処できませんのであしからず。まぁこのサイトは一週間更新しない事なんて普通ですから、別にいつも通りですね。

外なる世界と内なる世界

5月3日にも書いたけど、最近、現実に見えている世界と、自分の思考の中の世界との境がつかなくなってるような感じがする事があるんよ。それって何でかなと考えてました。私の心がだんだん開けてきてるから?それとも何だか思い通りの現実世界になっているからでしょうか。それもあるけど、そもそも日記を用いて私の世界を現実世界に公開してるからでしょうか?…そもそも、その二つの世界って、何なのでしょう?皆誰しも持っているものなの?

そいや、の話って、ここではしてなかったんだね。これはかつて書いたことがあって、これもそれなりに現実世界に対する自分の世界の捉え方の一つです。気ままに書いてみます。

この合宿を平和に過ごす事はまぁ間違いなく出来ないような予感がしてますが、次の更新がやたら壊れてても、まぁいつもの事だ風に流して下さっても構いません。…まぁ、なるようになります。ゆるゆると、力まずに。


5月19日(水)

合宿終わり

合宿から帰ってきて、初の更新ですね。もっと早く更新出来た筈なんですけど、する気力が起きませんでした。大分疲労していたのかもしれません。いや事実です。肉体的にも、精神的にもそうであったと思います。

今回そんなに壊れたことはありませんでした。ただ、ずっと仲間に言えなかった事は言いました。まぁそれは誰かの事なんだけどね。ていうか、もう言うつもりでした。最近の日記を見ればそんな感じがしますけど。しかし、言ったところで、気持ちは晴れませんね。特に楽になった感じもしません。言った瞬間も本当はそうでした。それは恐らく、言ってしまったことで、今後先がまた読めなくなってくることが何となく感じられたからだと思います。本当に、分からない。何ていうか、考えなければならない世界の範囲が広がった、二人から。そんな気がする。

今回の合宿で、本当はみんな誰かと同じ興味深い存在なんではないかと思うこともありました。みんなそれぞれに壁があるんだよね。越えたくない壁が。越えられない、かな。その向こうにいる相手は、何を考えてるんでしょうか。今まで人と踏み込んで話が出来ているという人も何人か知ってるけど、それは本当なんでしょうか。私はまだ出来てないと思う。ていうか、出来ている人間なんて、いないと思う。出来たと思っているような人は、所詮他人の像を見ているだけなんではないかな。

今日は何だか色々あり過ぎて、何だか考えがまとまんなさそうです。いやいつものことですね。また一人部の人とちょっと踏み込んだ話をするようになったけど、それが良いことなのか、そうでないのかは分かりません。でも確かに、これは自分が去年の11月くらいに思い描いた理想であるともいえるんだよね。でもこれでいいのかなとも最近思う。いや、皆が皆に言いたい事を言えたり出来る環境は良いと思う。でも、よく分からないけど、壁がなくなるというのは、…恐らくやり方によっては甘えが出てくるような気もする。

あと、今日は縦の集団としての合気道部を考えさせられました。今まで私は横の集団として、その中に今いる人間達の集団を中心に考えてきましたが、この部は卒業したOB/OGの方々、現在社会人の方々もこの集団と密接に関係しているんだと改めて思い知らされました。…要するに礼儀がなってなかった。横、同期に囚われるあまり、縦までは考えてなかったことが、何だか自分が愚かだった気がします。

よく分からないですけど、よく分からないなりに何とかやってくつもり。問題が全て解決することは無いと思う。そのときは、死ぬときかな。部が。最後に残るのは、形骸化したものなのです。私のいる支部のようにね。


5月24日(月)

何だか自分がどんどん浮いてきている気がする…。何ていうか、孤立しているっていう感じじゃないんだけど、孤独になってきてる…?のは前からか。いや、今回は部内で。自分がそう思っているだけ。合気道はダメになってる感じはしないんだけど。むしろ力が抜けたままできるようになりましたが。精神的に病んで、意識がはっきりしだすと前より上手くなれる気がする…。

今(化学)実験レポートを書いている途中で嫌になって徒然日記書いてる流離い人です。…確かに面白くて貴重な体験でしたよ。でも実験レポートを書くのがつらい…。化学の知識が殆ど無いから。内容がいささか行動科学っぽくなるのは仕方が無いような…。

心のハードとソフト

最近思ったんだけど、ていうか、自分の成長のなさっぷりからそう思っただけなんだけど、自分の心の働きには、いくらでも変化可能・書き換え可能なソフトウェア的な表面の層と、学習とか経験とかからでは殆ど変化しないより内側のハードウェア的な層があると思う。何故そう思ったかというと、ある程度心の開ける人に対する自分の行動が、昔から殆ど変化せず、よく人を傷つけたり、迷惑をかけたりするものであるからです。これは慣れてくればくるほど、顕著に現れてきます。いつか部員にしてしまいそうで…。あまり親しくない人には、表層の機能によって、わりと考えて行動出来てくるんだけど、そういうのが取っ払われてくると、やっぱり自分の行動に成長が無いように思えてくるんよ。ソフト的な層はいくらでも変えられますが、ハード的な層は、生まれ持ったもので変えることが出来ないのでしょうか?私たちはそのある特性を持ったハード層の上にソフト層を創りあげていくことを、心の発達や成長と読んでいるのでしょうか?

生まれながらにして、素晴らしい心を持っている人って、いるのかなー。私はそんな天才の能力は決して手に入れられないけどさ。

駄文ですね。もうなんか最近日記しかかけなくなってしましました。多分これから徒然戯言や大学日記に追加されるものがあるとしたら、日記からの引用などだと思います。日記がだいたいアイデアを生み出す場になってる…

なんだろう、行き詰まってんだろうね。私が。誰かは?


5月26日(水)

24日の曜日が間違ってましたね。火曜じゃなくて、月曜です。日付感覚が無くなって来た…

何ていうか、何もかも嫌になってました。多分精神的な病みからきていたんだと思います。病は気からと申しますが、お陰で実験出れませんでした。まぁ最悪は再履かな。まだ決まったわけじゃないけど。火曜寝込んで今日病院行って、大学にきたは良いが、勉強も手付かず。課題とか試験とかあるんですが、何もやってません。その代わりに黒い思考がやたらと出てきました。多分正直な思いなんだと思います。

話すことが出来る人間と、話してもしょうがない人間

私は誰であっても、本当は深い思考の交換が出来る人間であると考えてるんだけど、やはり現実にはそうではないと感じてる。どんな人にみんなは心の底をさらけ出して話したり出来るんでしょうか。ていうか心の底をさらけ出すって言うのも、果たして誰にも出来る事なのか疑問だけど。少なくとも私はそういう人物に会ったことが無い。誰かはもしかしたら、っていう感じだけど。別に、助けようと(?)してくれる人がいなかったわけじゃなくて、ただそういう人もいえるような人物じゃなかったというだけ。私の周りにはあまりいなかったけど、「何でも悩みを聞いてあげるよ、ボクは君の味方だ」的な人物を私はほぼ信用してないっていうか、何か勘違いしてるんじゃない?って思う。ある意味そういうのって、そう言う事によって本人が自分に酔ってるだけなんじゃない?って思う。こういうの結構男に多い気がする。本気でそういう事が出来ると思っているなら相当だ。女の子は割とその辺言うけど本心ではそこまで出来るとは考えてないっぽいというか…もっと表面的なものに重点を置いてるよね。何でも聞いてくれる、受け入れてくれるなら、私は「お前が嫌いだ」と言ってやりたい。「勘違いしてるんじゃない?」ってね。かなーり失礼というか、裏切ってるね。でもさ、ここで「せっかく聞いてやろうと思ってるのに、何故そんな事を言うんだ」とか言って怒り出すようであれば、そいつはそもそも聞こうとしていないんだな。本当にそれが出来るんだったら、このように言われることも承知の上のはずでしょう?分からなかったら試してみると良いよ、どうなっても責任もてないけど。

話を聞くってのは、誰にでも出来ることではないんだなと思う。誰にでも出来るというなら、私は人間に絶望しなかったと思うしね。

あー、黒いなぁ。黒いついでにもう一つ。

社会と集団と人の心の現実

私のしてきた事は、表面的慣れ合い関係からの逸脱、人の奥底で考えている事を表に出すことの出来る環境・関係をつくろうという事だった。険悪になりかけながらも、これは一応成功したと言えなくもない。でも果たしてそれは良いことだったのか?

最近、そういう心を表面に出すことは、社会集団として安定に欠けるんではないかと思う。社会というか集団が、最小単位では人と人が、上手く付き合っていくには、そもそもある程度の心の隠蔽化が必要なんではないかと思う。それが人と上手く、ぶつからずに関係を維持していく術理なのかもって。実際そうでしょう?私、他人の像とか、否定的に使ってきたけど、それが対人関係を安定させているシステムなのかもと思ってきた。いちいち他人一人一人に対して心を見つめてたら、気が持たないって言うか、破綻しかねないと思う。だから、普通はそういうことすべきではないんだ。

私は現実を見ろとか、社会の受け入れ態勢が出来てないとか、誰かに言われた事があるんだけど(果たしてどういう意味で言ったのかは謎、聞いてない…)、実際その通り。普通はそんなことはしない。社会はそういう風には出来てない。現実か、私は現実を見てないか。

現実って何でしょうか。私は現実を見ていない?普通の人の現実にとっては、こんな流離い人の生き方は現実ではなくて、夢みたいに現実逃避と同じもんだと思われるでしょう。流離い人のような事をしないって事が、現実で、普通で、この社会に生きる方法なんでしょう。でも、私にとっては、その現実は現実に感じられなくて、生きてるんだか死んでるんだか分からなくて、言ってしまえば私がいない感じがする。私にとっての現実とは、人々の思考の中で、心がある環境の中でそれに向かいながら生きることなんだと思う。私に「現実を見ていない」というなら、「ならばあなたは人の心の現実を直視していない」って言いたい。普通はそんなもん直視すべきものではない、ていうか直視するのはタブーみないな感じなんでしょ。もっかい言うけど、現実とは何でしょうか。現実を見据えて生きるって、どういうことなんでしょう。

流離い人の生き方と、そこから学ぶ事について

私はたまに、人から為になるとか言ってもらえるんだけど、普通は私みたいなこと、私みたいな生き方はしてはいけないと思う。私から学ぶ事があるとするならば、真似してはいけないという事だと思う。それが一般の、普通の、大衆の社会に生きることで、私の真似をしたら確実に生きていけなくなると思う。私は自らこの生き方を選んだから後悔は無いけど、そこまでする覚悟が無いなら止めた方がいいと思う。一生というものに悩まされながら生きるんだよ?そんな事しないのが普通だと思う。流離い人は反面教師なんだよ。

今日まで、凄く精神的にふらついてたけど、今はもう何とかやっていけそう。多分昼頃サイト更新してたらこの内容で壊れまくった日記が書いてあったと思う。