2004年9月

9月7日(火)

合宿から帰ってきました。

何ていうか、私は心配されるべき状態でもないし、済まなく思われるべき者でもないですね。やっと問題がはっきりして、さぁこれから、っていう段階です。

深く考えつつ、深く考えないこと。


9月9日(木)

こんばんは。最近、小説ばかり読んでます。あまり真面目に情報技術者試験の勉強もしていないですね。情報の本も読んでると楽しいんですけど、それより小説が気になって…。古本屋で100円で売ってたりすると、取りあえず買ってしまいます。読んでない本がかなりたまってきている…

さて、用語のおかしい私の無題なぺえじ、この日記は情報源として全く役に立ちません。ひたすら正直な日記です。書いてあることは意味不明なこともあるし、言葉が間違っていることもあるし、整合性もなかったりします。次の日に否定することさえあります。

あれだよね、結構ヒドイ事書いてる日もあるね。失礼極まりないすけど。まぁこんなサイトを真に受ける人もいないとは思いますが、すいません。

いつだったからか、なるべく自分の深いところをすくい出すように、日記を書くようになりました。リミッターをはずすように。流れ出すように。それによって、誰かを傷つけることにもなるけれど。でも、それが私には必要だったのかもしれないと今は思っています。いい人、いいサイトで通した方が良かったのかもしれないけど、段階としてそういうものがあるんだと思う。子供から大人になるときね。

一般論で言えば、このサイトは、いわゆるガキんちょが己の成長の過程を日記として書いているようなものでしょうか。その人はそういうつもりで書いているつもりは無いけど、そういうことになるんだと思う。そう、一般でくくれちゃうんですね。そう自分で考えてしまうと何かつまらないと思うんですけど。

誰にでもあることを、書いているだけに過ぎないこの日記。そういう風にしちゃうと、つまらないね。実際のところ、このサイトの日記は、流離い人さんが歩んできた人生の断片なんでしょう。それ以上でもそれ以下でもない?何だろう。

続き

道場

ある道場に通うことにしました。自分でも、なぜ電車に乗って、道場に行って、着替えて稽古しているのか、状況が分からなかった。本当に、普通だった。普通に、それぞれの行動が、続いていました。以前は、もっと一つ一つに抵抗がありました。絶対どこかで行くんじゃなかったと後悔してたと思います。うーん、図太く生きていけるようになったのか?

道場では、今まで色々稽古してきましたが、何も出来ない、体をコントロールすることすら出来ないと分かりました。割と楽しく稽古してたかな。皆さん明るいし。…ただ、何故自分はここにいるんだろうと、ふと思ってしまったのは何故だろう。この問には、答えられずにいます。何故、武道を続けるの?

活動

英語の勉強もかねて、和訳ボランティアに参加しようと思います。あと、プログラミング、LINKナビは完成させたいですね。Javaプログラムは…出来るかなぁ。でもやってはみたいね。


9月18日(土)

部活に行く時は電車内で本を読みます。最近読んでる本は、他者の現象学です。図書館で直感で選んだ本です。難解ですけど、全く解らないわけではなく、なかなか重要な内容であると思っています。村上春樹は、風の歌を聴けから羊をめぐる冒険までの、初期の作品を読みました。綺麗ですね。たまに本屋に寄っては村上春樹さんの本を買っています。

道場は、あまり普通の道場という感じではなく、楽しい雰囲気です。皆さん優しいですし、先生の動きが興味深いですね。何も分からないというところが。道場に通うまでの道のりはのどかで、まだまだ田舎な感じがします。あまり人のいない電車に乗って通うというのも良いですね。

墓参りにも行きました。相変わらず、時間が止まっている土地です。アリが幾つかの巣を作って、墓地の周りを右往左往していました。いつまで家族と一緒に来れるかは分かりません。もうそろそろかもしれない。

それなりに最近充実した生活を送っております。自分が今まで行なってこなかった行動を最近しています。それは多分、2003年1月13日授業をサボるという日記と同じ類のものです。今まで狭い世界に自身を置いていたから、授業をサボるという何のことはない(?)行動でも、世界が広がった感じがしたんでしょうね。まぁそんな感じで色々行なってます。山パンのバイトもやってみました。

さて、誰か、なのですが、結局、自分にとって誰かとは何だったのでしょうか。自分の感じていた感情はなんだったのか。

自分の思っているこれ、というのが絶対確実であるとするならば、今現在、この誰かとこのままの関係を続ける気がさらさらありません。きっと、私は消しさると思う。今まで、誰かとの関係によって、ものごとが進んできましたが、その段階が終ったんじゃないかと思っています。私は誰かを失うけど、それによって、もっと大きな何かを得ることが出来ると思っています。


9月21日(火)

最近また風来のシレンにはまりつつあります。私はこういうパズル系の要素を持ったゲームが好きです。不思議のダンジョンはトルネコから知っていて、自分で言うのもなんですが、結構上手いです。

もともとこの流離い人という名前は、風来のシレンに関係している、というか、ファンサイトで使っていたものなのです。名前を何にしようか考えた結果、ふと思いついた名前です。特に由来は無いような気がします、確か。

土曜あたりから、物事が止まって見えます。それまでは動いていたものが、ふと時間が止まった感じです。まぁ理由は多分あれだけど、さてどうするのか。自分のしたいようにすればいいのではないかな。

自分−他人との関係:誰かとの関係は、自分にとって、そして多分誰かにとっても、必要があって、今まであったんだろうと思っています。この上で、元気付けたり、傷つけたり、お互いしてきたわけですが、この関係の役割は、もう終了するように感じる。私がそう感じるだけで根拠なんて無いんですけど、多分。そして、この関係での最後に、最大の傷付けが残っている。最後のお祝い。


9月28日(火)

無題なぺえじを振り返ってみよう

こんばんは。超個人的サイト、無題なぺえじの管理人、流離い人です。今日は、この流離い人の徒然日記を読み返していました。…実は消滅してしまった日記がありました。2003年12月11日2004年6月28日の日記がありません。Internet Archive から12月11日の日記は運良く取り出せたのですが…。あと、2004年6月21日のコメントが消滅しています…。なくなってしまうって、悲しいことですね。

大体大別すると、2つに分けることが出来そうですね。徒然日記的には、2003年5月あたりから変化し始めます。そういえば、日付の付け方も変わってるのか?トップコメントでは、2004年5月5日から変化しています。因みに、私の日記では5月1日です。2002年〜2003年4月までは、なんだか幼い子供のような感じです。ガキっぽいよね。無知編とでも名づけましょうか。2003年5月から、誰か編が始まるっぽいです。そして段々に壊れ始めていきますね…

一人称の変化についても、考える事が出来るかもね。ボクという人は、結構日記自体に距離をおいている書き方をしています。ていうか、ボクなどと言っている時点で、私とは距離おいて別人として振舞っているような気もしますが。多分、日記も何度か書き直したりしたでしょう。割と、流離い人として書いた日記に多いです。それに対し、とあるのは、日記の作者がそのまま書いたものであることが多いです。ほとんど書き直しなどせずに、そのまま勢いで書いて、載せた日記です。

結局、無題なぺえじってなんなのでしょう?私はこう思うんですが、このサイトは、私の箱庭みたいなものなんだと思う。河合隼雄さんの心理学の本読んで、そう思いました。私が気ままに、自由に作っていく作品なんです。その作品から、私は恐らく自分自身で何かを読み取り、自己治療しているのではないでしょうか。私は、自らのこころの処方箋を自ら作ってたんじゃないかな。

私は他人の治療者でもあり、同時に患者でもあるんだと思う。ていうか、それが他者との関わりなんではないかな。心理療法って言っても、別に特別なんか治療をするっていうイメージではなくて、対話や関係の中で、進行していくものらしいですよ。

最近、私は色々行動しています。全部はかけないけど、割と最近、体が柔らかくなって、快適です。肺が動くようになりました。肋骨や内臓はまだちょっとですが。心なしか、体が軽くなった気もします。太刀も軽く振れる様になりました。

私は、世間一般では、非常識だと思われるような、何かの力を使えるようになる必要があった。私の場合は、それは心に関係していると思う。私にはもっと、力が必要だった。自分と、誰かを救う力が。